憐れみを受ける人
ルカによる福音書18章9~14節
憐れみを受ける人
昨日は幼稚園の運動会が行われました。暑くもなく、寒くもない、丁度いい天気に恵まれて、とてもいいときでした。礼拝から始まって、ダンスを踊ったり、組体操やリレー、それは見ている人を緊張させたり、感動させたり、まるでミュージカルを見ているようでした。子どもたちは、自分が今やるべきこと、立つべきポジションをきちんと守って、ときには応援に来ているお家の人に愛想を送りながらも、そのときをエンジョイしている。勝ち負けはまったく考えていない。ただ楽しく走ること、みんなで協力してできることが大切で、できたら嬉しいという世界です。
さて、先週に続けて、今週も祈ることに関するテキストが選ばれています。
はじめの9節に、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」と記され、この話の聞き手が誰なのかをはっきりさせています。つまり、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」が対象となっています。そして、私も自分のうぬぼれを思うと、私にも向けられたメッセージです。
イエスさまはお話の中に二人を登場させます。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人です。この二人の社会的立場は遥かに異なります。一人は宗教界のリーダーで、一人はローマのために税金を集める徴税人です。徴税人は、仕事柄罪人扱いを受けていて、神さまの救いから遠いと思われ、神殿の中に入ることもゆるされていませんでした。ファリサイ派の人々からは見下されていました。こうして全く異なる立場の二人を、イエスさまはお話の中に登場させています。
ファリサイ派の人は、神殿に入って、真っ直ぐに立って堂々と祈ります。「自分は奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のようなものでないことを感謝します」と。そして「週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています」と。彼は自分を正しい人とし、自分の行いに対して誇りを持っていることが分かります。
律法では、すべての民に年に一度の断食を命じていますが、イスラエルでは、新しい月が始まる初日には断食をする習慣があります。しかしファリサイ派の人たちは、週に二度も断食をしていたようです。そして、全収入の十分の一の献金をしていました。さらには、物を買ったりした場合も、そこからまた十分の一に相当するものをささげていたようです。そうなると、一般の人々はそこまで守れないので、一般の人々とファリサイ派の人たちとの間には距離がありました。
このように、ファリサイ派の人たちは、小さな律法でもきちんと守り、決まっていたこと以上のことを行うことによって、自分たちは他の人とは違う、自分たちこそ神に選ばれた者という強い選民意識をもっていました。
紀元70年ごろの人で、ファリサイ派の一人、ネフニヤ・ベン・ハッカーナーという人の祈りが伝えられています。このような祈りです。
「わが神、わが祖父の神よ、私はあなたが私に律法の教えの家と集会堂に座す人々に連なる者とさせてくださったこと、私を劇場とか演技場に連なる者となさらなかったことを感謝します。私は努力し、彼らも努力します。私は熱心で彼らも熱心です。しかし、私は楽園を得るのに努力しますが、彼らは墓の泉のために努力します」。
当時は、競技場や演技場で働く人は卑しい者とされ、厳格な信仰を持っていたファリサイ派の人々からは見下されていました。芝居をする人、楽器を奏でる人、体を動かして踊る人、つまり、芸能界にいる人のことを卑しい仕事をしている人として、特にファリサイ派の人々から軽蔑されていました。
このようなことはユダヤ教の中だけでなく、初期~中世のキリスト教の修道院の禁欲主義にも見られました。修道院の中では笑うことが禁じられたところも多くありました。声に出して笑うことは快楽に繋がっていくと考えられたのでしょう。
みなさんはウンベルト・エーコ著作の「薔薇の名前」という小説を読んだことがありますか。 中世のイタリアの修道院で起きる連続殺人事件の話です。知の宝庫と言える図書館を巡って殺人事件が起きます。修道院の図書館には喜劇の本も収まっていましたが、読むことは禁じられていました。しかし、修道士たちはその本を見つけて密かに読み、仲間たちにも勧めます。笑うことを強く断罪するある一人の修道士はそれを知り、本の中に毒を塗っておきます。本をめくるとき、手に唾をつけるので、指についた毒が口に運ばれ、その毒が体中に回って死に至るのです。
この小説は映画にもなって、ショーン・コネリーが主演をつとめ、この事件を解明します。
ネフニヤ・ベン・ハッカーナーの祈りから薔薇の名前の話になってしまいましたが、キリスト教の長い歴史の中にも、こうした禁欲主義的な教えが強くあったということです。苦行こそが信仰にとって大切だと教え、そうできない人のことを卑しいものと位置づけ、場合によっては死に至せるほどの厳しさを要求したのでした。
今日、イエスさまのお話の中のファリサイ派の人の祈り、「自分は奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のようなものでないことを感謝します」。そして「週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています」。
断食をする、十分の一の献金を献げる。このことは、本来、自分と神さまとの関係の中で行われることです。人に知らせるようなことでもなければ、人と比較するようなことでもなく、人に強要することでは、なおさらないのです。
私も韓国の教会にいたときにはよく断食をしましたし、十分の一の献金をささげるようにと教育されました。日本に来たばかりの留学生のときには、貧しかったので断食をすることはそれほど問題ではありませんでしたが、アルバイトで得た収入の十分の一を献げることはたいへんでした。しかし、みんながやっているから自分だけがやらないわけにはいかないという思いもあってささげました。そのときの訓練は、今はとてもいい信仰の基盤となっています。神の国は、貧しさの中にこそ臨まれるということをよく知ったからです。
しかし、このようなことは、神さまとの関係の中で生まれるものであります。心の自由がない中で、断食や献金が強いられるとき、その人の中に誤った信仰形態が形成されます。つまり、自己義認と言う信仰の形です。強要されたことを実践することで自分を義人化し、さらにはできない人のことを見下すようになります。そして、このような信仰の形は、自分の努力によって得られるものなので、手応えもあり分かりやすいものです。行いがあるので生きた信仰のようにも見えましょう。しかし大切なことは、その人の心にキリストの自由が宿っているかどうか、その自由から生まれる行いなのか、あるいは決められた律法を守るような行いなのか、それによって天と地のような差が出てきます。
イエスさまは、そういうファリサイ派の人々の前に、彼らから見下されている徴税人を立たせました。神殿の遠くに立ったまま、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神さま、罪人の私を憐れんでください」と祈るしかない徴税人。イエスさまは、この徴税人を立てています。神さまに正しいと受け入れられたのはこの人であるとはっきりと宣言しておられます。そして最期に、「誰でも、高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と。
信仰者が受ける誘惑。楽しく食べたり飲んだり、お金を稼ごうと必死に働いたり、昇進のためにがんばったり、名誉ある地位に着こうとすることを誘惑とは言いません。働いた結果としてそれなりの収入を得たり高い地位に上がったりすることは当たり前のことです。
本当の誘惑は、自分自身を「義人」、つまり、神の前に「正しい人」と自分が決めつけること。皆さんは、このような誘惑にかられることありませんか。私には数えきれないほどたくさんあります。ファリサイ派的な祈りをして自分を安心させたり、人と比較して自分をなだめたり、そしてそうすることで人を指してその人が守っていないことを指摘したり・・・
ですから、イエスさまは主の祈りを教えてくださったのだと思うのです。「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」。この祈りがどれだけ大切な祈りなのかわかりません。虎視眈々と悪は巧妙に私たちを誘惑し、気づかないうちに私を神の座に導いてしまうからです。誘惑を退けるために、日々、毎瞬間、今自分の立つべきところを吟味して、人の領域を侵したりはしていないのか、神さまとの約束を忘れてはいないだろうか、祈りの中で振り返る必然性を、今日イエスさまは教えておられます。
救いは、神さまから一方的な恵みとして与えられるもので、人の努力によって手に入れるものではないということ。洗礼を受けた人も受けていない人も、神さまの御目には等しく、み恵みを受けるにふさわしいものなのです。神さまのこのまなざしの中にいるときにのみ私たちは今を生き、そして神の国を生きることができるのでしょう。