神を疑う余裕はありません
神を疑う余裕はありません。
ルカによる福音書20章22~38節
秋日和が続いていて、自然界の営みの豊かさに目覚めるときを今私たちは過ごしています。紅葉した葉っぱが静かに枝から大地に落ち、そのようにして新しい始まりを準備する木々。このような季節に、今年もこうして皆様と一緒に全聖徒主日を守られることを嬉しく思います。そして、教会の中にこの日が設けられ、死と命に対して考えるときが与えられることも恵みです。
生きているとはどういうことでしょうか。それは、動いているということ。小さな細胞一つ一つが体の中で動いています。内臓が、心臓が動いています。溢れる命が私たちの体の中で躍動している。生きていると言うことは、命に溢れるということです。命に溢れるところには、必ず変化が訪れます。季節に春夏秋冬があって万物が季節に合わせて変化するように、人の体も時の流れに合わせて変化します。成長期があり、成熟するときがあり、老いるときがあります。時々病気にもなり、転んでけがをし、疲れて力が出ないときがあります。こうしたいろいろの変化を、生きている体は味わいます。そして、内面に起きる変化はどれだけ激しいことでしょう。嬉しい時もあれば憂いの時があり、喜びの時があれば悲しみの時があり、別れの時があれば出会いの時があり、恐れや不安な時があれば平安な時がある。沢山の変化の中で人は生きる、私たちは生きているのです。
イエスさまは神さまのことをこのようにおっしゃっております。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と。つまり、神は「死」をご自分の領域から退けられたということ。神さまがおられるところは命に溢れるのだというのです。
今日私たちは御許におられる皆様と一緒に礼拝を捧げていますが、神は死んでいる者の神ではないというなら、今死んで御許におられる方々の神ではないのでしょうか。そうではありません。私たちと神さまとは、「死」に対する理解が異なります。私たちは、この身体としての体が亡くなることを「死」と捉え、それが命の終わりだと考えます。しかし、神さまは、身体として体は死んでも、その人の命は神さまの御腕の中で生き続けているのだと語られます。
先ほど拝読された福音書のはじめに、イエスさまの前でレビラト婚について議論しているサドガイ派の人々は、そのはじめに記されていたように、死者の復活がないと主張するグループでした。サドガイ派は、「不信仰者」の代名詞として使われ、政治的に有利に立ち振る舞う金持ちの快楽主義者という烙印を押されていました(旧約新約聖書大辞典)。
そして彼らが持ち出したレビラト婚とは、子どもがいないまま夫を亡くして寡婦になった女性が、夫の兄弟と結婚をするという制度でした(申命記25:5)。それは、結婚で結ばれた両親族の絆を維持し続けるための制度でもあり、子孫を残すことに女性の役割を見出すものでもありました。
この制度のもとで、七人の兄弟と結婚をした女性は、死んだらいったい誰の妻になるのか、サドガイ派の人々がイエスさまにぶつけた質問でした。
イエスさまの前で復活はないと主張するサドカイ派の人たち。彼らは、サドガイ派の人々の神概念、そして人間観がどういうものかを、イエスさまへの質問を通してよく表してくれています。この世での生に拘る人たちです。それは、制度だったり、権力だったり、お金だったり、名誉だったり、概念や抽象化された世界の中で神を捉え人間を理解する人たちです。ですから、彼らにとってレビラト婚のような制度は、今栄えている自分の子孫を残すために、つまり自分自身を残すために大切に守るべき掟でした。
イエスさまはそういう彼らに対しておっしゃいます。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34~36節)と。
サドガイ派の人々は、この世の制度にばかり関心がありますが、イエスさまは神の国のことをおっしゃっておられます。
私たちはどうでしょうか。死への恐れを抱いていないとは、誰も言えないと思います。私自身の中にも死への恐れがあります。それは、生まれる時から死の宣告を受けている者であることを、私たちは知っているからです。やがては死ぬべき弱い器であるゆえに、この世の制度にしがみつくことで、死への恐れを和らげようとしている。私たちは死の支配下にあって、死の力を通して神を理解しようとします。また、自分自身との関係や家族や隣人との関係性も、実は死への恐怖に大きく影響されているのです。死者の復活を信じないサドガイ派の人々と同じです。
その私たち、そしてサドガイ派の人々に対してイエスさまはこう宣言しておられます。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)と。
つまり、復活を信じるとは、神の支配下に生きるということ。神の支配下に生きる人に復活の出来事は起きるということ。制度化されて見えない鎖に縛られて、死の世界を生きるのではなく、新しい命を見出して神の自由な世界へ移って生きるという出来事。だから、復活とは、今ここで、私たちの生の現場で具体的に起きていることとして体験することがとても大切です。生きていて体験できなければ、人事のようにしか受け止められないからです。
皆様にもお配りした日本FEBC放送局の月報11月号には、平野克己(ひらのかつき)牧師の説教が載っていました。その中に死刑囚の言葉を紹介する文がありました。平野牧師の友人が網走刑務所を訪れ、刑務所の囚人と文学の話をしていた時に、死刑判決を受けている一人から、「先生、我らは神さまを疑う余裕がないのです」と言われたそうです。文学の話の中で、神の存在について議論していたのでしょうか。人々は神がいるかいないか、神の国が存在するかどうかを議論するのが大切かもしれないけれど、死刑判決を受けている私には、神がいないなど疑う余裕などありませんという切実なこの一言に私は心を打たれました。
死刑囚たちが過ごす日々。いつ自分の名前が呼ばれるかわからなく、訪れる毎朝ごとに、今日かもしれない、今日かもしれないという不安と恐れを抱いて一年、二年、三年、十年・・・死刑の判決が下されてもすぐ死刑が執行されない中で抱く命への切実な思いに、私は関心を寄せることもなく過ごしてきました。本当は自分自身も死刑囚であることに違いないのに、いつまでの生きられるような、安易な生き方の中で死者の復活も、神さまと人との関係も捉えて生きてきました。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」である。
イエスさまは、私たちの生活の中に具体的にかかわってくださる神さまの姿を伝えておられます。平野克己先生のお言葉を借りるならば、神は、議論の対象でもなければ、抽象化された世界の神ではなく、私の中に起きる具体的な出来事に関わってくださる神である、と。
つまり神は、相手のことをゆるせない思いに捕らわれている私の現実の中に入って来られて、私の暗闇を照らし続けてくださるお方。孤独の中に自分を追いやって心を閉ざしていくその私をそのまま包んで、大きなご自分の中に受け止めてくださるお方。誤りの責任を相手に転嫁しようとする私の代わりに、静かにその責任を引き受けてくださる、憐れみ深い愛の神。嬉しい時や悲しい時、病んでいる時や健康な時、ありとあらゆる時に神との出会いを果たすのは、死んだ人ではなく、生きている今のこの私であるというのです。
そして、今御許におられる方々も生きておられます。神との出会いを果たして御許におられます。そして、今この地上で身体をもって生きている私たちも、具体的に自分の中に介入して来られる神に気づいたとき、神の支配下に生きる喜びを味わいます。その喜びを味わうときに、人は議論をすることを止めて、新しい始まりを歩き出します。血縁のつながりを超え、主にある家族との連帯の中に訪れる神の国を生きる者となって歩き続けるのです。そこが、「すべての人は、神によって生きている」世界であり、そしてそこでは、パン種が小麦粉を膨らますように、小さなからしの種が大きな木になって鳥が来て巣をつくるように、成長を続けます。変化を恐れないのです。神の国の神秘の中を生きているからです。
イエスさまは、ヨハネによる福音書の中でこのようにおっしゃられました。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26)。
このイエスさまのお尋ねに、「アーメン、はい、信じます」と答えて歩き出しましょう。