マリアになる
ルカによる福音書1章47~55節 マタイによる福音書11章2~16節
マリアになる
今日は鵠沼教会の新しい始まりの日です。聖壇の布が一色増え、今日はピンク色の布が飾られたのです。聖卓、説教台、朗読台、私のストールもピンク色です。教会の典礼色としてピンク色は、喜びを表す色です。待降節は、私たちの歩みを振り返り、慎み深く過ごす悔い改めの季節です。ですから、紫色が飾られます。しかし、慎み深さの中にも喜びはあるという確信を表すために、ピンク色を飾る日が設けられています。そして、待降節だけでなく四旬節にも喜びの主日が設けられていて、ピンク色を飾ります。このように、典礼色にも福音の豊かさが表されているのです。私たちの信仰も、福音の豊かさを日々表すものになりますように祈ります。
そして、本日の喜びの主日の賛美唱としてはマリアの賛歌が選ばれています。マリアの賛歌は喜びの賛歌です。身分の低い主の仕え女にも神さまが目をとめてくださった、それがどんなに嬉しいことか、その嬉しさをマリアが歌っています。
しかし、マリアが賛歌を歌うまで、マリアの心の中で起きた葛藤がいかなるものだったのかを私たちは想像して見る必要があります。きっと嵐や台風が直撃して来たような人生最大の危機だったのです。その中で決断が求められたマリア。つまり、ガブリエルのお告げは、それほど簡単に受け止めるようなきれいごとではなかった。だからこそ、神さまに全信頼をささげきったときにマリアの中に湧きあがった喜びは、賛歌を歌わずにはいられないほど大きなものだったのでしょう。その喜びの中でマリアは宿った救い主を産んで育て、神さまの道を歩むように支えていきます。
ある人がこのように言っていました。「キリスト者はぼっとしている暇などありません」と。本当の意味でキリストの道を歩くためには、ぼっとできないということでしょう。キリスト者の心の畑は、大地の春の畑のように、宿られた新しい命のゆえに常に躍動感に溢れているということです。宿った種から芽が出で、成長し、花を咲かせ、実りをもたらすまで世話をする。そして、その実りをみんなと分かち合う。ぼっとしている暇などないのです。マリアの歩みがそうでした。
マリアは、神さまからのご委託を受け入れました。誰も一度も歩いたことのない道を歩きますと、「はい!」と答えたのです。楽しみにしていた将来の計画や婚約者ヨセフとの約束を後にして、自分を神さまの器として差し出したのです。それによってマリアは救い主、イエスの母となったのです。イエスの母、ぼっとしていらえない。春の大地のような働きをこれから担ってゆくのでした。
私たちにとってこのマリアは誰なのでしょうか。
処女(おとめ)の体に救い主が宿られる、この人間的にはまったく理解できないことを告げられた神さまをただ信頼して受け入れ、その神さまを偉大な方であると声高らかに賛美するマリア。このマリアは私たちとどういう関係なのでしょうか。
マリアは、私たちひとり一人なのです。その私たちが集まって一つの群れをなすこの教会がマリアなのです。キリスト者の集まりからなる教会には、命を生み出す働きが委ねられています。その命とは、救い主です。救い主を身ごもって生み出さなければ、教会は死んでいる、ただの建物、ただの人間の仲良しクラブの集まりになってしまいます。
そして命を生み出す働きには、定年がありません。死ぬその瞬間まで私たちは現役です。つまり私たちは、死ぬ瞬間まで若々しく、神の宣教の器として用いられるのです。歳を取って体がよたよたしても、内面は新しい命を生み出すマリアなのです。私たちはマリアとして呼ばれ、マリアとして生き、マリアとして死んで行くのです。男性も女性も、子どもも大人も、障害があってもなくても、いかなる境遇の中に置かれていても、私たちはマリアになって、救い主を宿って産み出す働きを担う神の働き人なのです。
主の母となるべく呼ばれ、その喜びを賛歌で表すマリアは、今の、この私たちのモデルです。
先ほど拝読された福音書には、牢獄に監禁されているヨハネの姿がありました。異母兄弟のフィリポの妻へロディアを横取りして自分の妻にしたヘロデ・アンティパスを批判したためにヨハネは牢獄に入れられたのです。牢獄からヨハネは弟子たちをイエスさまのところに送って尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と。
ここには、先週私たちが聞いた、マタイ3章でのヨハネの姿はどこにもありません。そこでは「私の後から来る人は、私より力ある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言ってとても謙遜にイエスさまを称えていました。それからイエスさまは、このヨハネから洗礼をお受けになり、二人は厚い信頼関係にありました。
しかし、投獄されてからのヨハネは、イエスさまのことを疑っています。その質問を聞かれたイエスさまはヨハネの弟子たちにこう告げられます。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」と。
「私につまずかない人は幸いである」。ヨハネに向けてのイエスさまの嘆きです。ヨハネは、牢獄に入れられてから、イエスさまにつまずくようになり、イエスさまを疑うようになりました。
ヨハネの弟子たちが帰ってからも、イエスさまは、それまでのやり取りを見聞きしていた群衆にヨハネのことを語られ、その最後にこう述べられました。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と。つまり、自分の無力さを知り、イエスさまの助けを求めて隣人の必要のために奉仕する者は、ヨハネより偉大な者であるとおっしゃるのです。それは、ぼっとなどしていない人のことです。
パプテスマのヨハネは荒れ野を拠点として神の国の悔い改めの福音を伝えていました。
私たちも荒れ野にいます。荒廃した地に住んでいます。能力主義、成果主義、武器の産業と所有、お金第一の世界です。しかし私たちは別の道へと呼ばれています。弱さを誇り、積み上げるよりは貧しい人々に分かち合うことを喜びとする道。武器やお金ではなく神さまを主として生きる道。私たちはこの道に呼ばれた群れです。ヨハネと同じように、神の国の福音を分かち合う者として生かされているのです。
しかし、ヨハネは牢獄に入れられてからは、イエスさまを疑うようになりました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と。自由をうしなった人は、昨日まで固く信じていたことでも疑うようになるということ。イエスさまとパプテスマのヨハネのあれだけ厚い信頼関係が、牢獄に入れられたことで変わってしまいました。パプテスマのヨハネの中にも、弱さがありました。
私たちはどうでしょうか。心が、魂が牢獄に入れられたような生き方をしていないのでしょうか。自分の思うように物事が動かなくなると、人を疑い、神さまを疑うことはないでしょうか。悔い改めの季節の中でも、人の過ちや弱さを指摘して、批判していないだろうか。
その私たち、そして牢獄から問いを発したヨハネにも、イエスさまは力強くこう宣言なさるのです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を聞いている」と。
ですから、イエスさまを救い主として迎えようとする人は、自分の弱さや限界を嘆いてはなりません。むしろマリアのように、神さまがなさろうとしている偉大な業を自分の中に受け入れます。「はい、多くの弱さを抱えているこの小さな私をあなたの器として用いてください」と、信頼の内に自分を差し出すのです。それによって常に新しい命を生み出し、この地域の一人一人に喜びを分かち合う群れになるのです。この教会から常に救い主の産声が響く家畜小屋にいたしましょう。