父になる

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マタイによる福音書1章18~25節

父になる

主の降誕祭が一週間後に近づいてきました。神さまは処女(おとめ)マリアを救い主イエスさまの母に選ばれました。マリアは聖霊によって身ごもり、イエスさまを産むことになりました。それは、人間の力をはるかに超えることでした。そうならば、人間の父親はいらないのではないか、その方がマリアに介入なさる聖霊の存在がはっきりするのではないか、神の神聖さも明らかになるのではないかと思うのです。しかし神さまは、ヨセフをイエスさまの父親として立てられました。それは、彼がマリアの婚約相手であるというだけでなく、聖霊によって宿り、救い主としてお生まれになるイエスさまも、私たちと同じように、母と父の世話なくしては、一人の大人に成長することができなかったからです。

実際、イエスさまの誕生や少年時代の物語は、父ヨセフの存在なしには考えられません。住民登録のための、ナザレからベツレヘムまでの長い旅を、ヨセフは、お腹の大きなマリアをつれて行かなければなりませんでした。自分の故郷では泊まる所を必死に探さねばならず、自分の故郷なのに何度も拒絶されました。やっと見つけたのは家畜小屋でした。その度、ヨセフはマリアに対して申し訳ない思いをいだいたことでしょう。さらには、生まれて間もなくヘロデ王の剣を逃れてエジプトへ逃げなければならなかったこと。そのエジプトでの数年にわたる難民としての生活・・・。これらすべては、マリア一人では到底担いきれないことでした。

幼稚園のクリスマス礼拝が先週行われました。礼拝の後に披露された聖劇は、今年も素晴らしかったです。微笑ましい場面がたくさんありまいた。そして、今年のマリアはとても元気でした。天使ガブリエルの受胎告知を堂々と受け入れる姿もそうですが、ベツレヘムで訪ねた最初の宿屋から断られると、マリアはヨセフの手を引っ張って次の宿屋へ行くのです。これぞ現代版のマリアとヨセフだと思いました。リーダシップを取るマリア。同時に、実は、ナザレのマリアもパワフルな女性だったのかもしれないと思いました。イエスさまが最初の奇跡を行われたカナの婚礼でのマリアの振る舞いを見ると、イエスさまはまだ躊躇しておられる様子なのに、マリアは召し使いたちをあれこれと仕切っています。

しかし、母マリアがどんなにパワフルだったとしても、イエスさまには父ヨセフが必要でした。ところがヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことが知らされると、秘かにマリアと離縁しようと思い始めます。婚約していながら他の人の子どもを身ごもる女性は、当時の律法では石打ち刑(死刑)に処せられることになっていたからです。ヨセフはマリアのことを守るために、マリアの身に起きていることを明らかにするのではなく、秘かに別れる決心をしたのです。聖書は、そのヨセフのことを「正しい人だったので」と記しています。

その正しさによって下した決定は、マリアと離縁することでした。それは、ヨセフの正しさには限界があるということです。マリアと別れることでマリアとの関係を収めようとし、自分と神さまとの関係もその辺で落ち着かせようとしたのです。マリアと離縁することで、ヨセフは確かにマリアを守ろうとした。しかしそこには、マリアに起きている面倒なことに関わりたくないという逃げの姿勢も見られます。マリアの体内の子は、聖霊によるものであることをちゃんと知らされていても、ヨセフはすぐにはそれが理解できず、依然と自分の正しさの中に留まろうとしていました。 人間的正しさだけでは、神さまの救いのわざの中に入っていくことはできないのです。

聖霊は、そういう打算的な思いを超えて働きます。人の正しさからは面倒なことに見えるその中に、実は神さまの救いの業が宿っているのです。ですから、人は、自分の正しさを手放せねばなりません。マリアの体内の子を通してもたらされる救いの働きは、人間的な正しさだけでは担いきれないのです。私たちが固執している自分の正しさではなく、聖霊の働きに巻き込まれ、聖霊の風に乗り、神さまの慈しみ深い愛の中に包まれるときにのみ、人はイエスさまの救いの業の中を生きるのです。それを、今日のヨセフの姿が私たちに告げています。

神さまは、マリアと離縁を考えているヨセフの夢の中で、ヨセフに語りかけます。

ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」。

聖霊がヨセフの正しさの中に語りかけて来られたのでした。ヨセフの正しさの中で聖霊が働き始めました。夢から目が覚めたヨセフは、躊躇することなくマリアを妻として迎え入れます。ヨセフは、まさに「神の正しさの中を生きる人」になったのでした。

みなさんは「そして、父になる」という映画をご存知ですか。

数年前に上映された映画で、是枝裕和監督の作品です。国内でも海外でもたくさんの賞を受賞した傑作です。

大手建設会社に勤め、高級マンションに暮らす夫婦の間には六歳になる息子がいますが、出生時に他の子どもと取り違えられたことを、病院側からの通達で知らされます。遺伝子を調べ、自分と一致しないことが分かった父親は、相手の家族と会って息子を交換しようと試みて見ますが、うまくいきません。そこに生じる苦悩や葛藤を描いた映画です。エリートとして何でも思うようにして来たし、そのやり方でこのことも出来るはずと思う父親にとって、子どもの気持ち、妻との関係、相手の家族の思いなど、すべて自分が思うようにはいかない。お金で解決しようともしてみますが、ますます人を傷つけることになる。そういう苦しいトンネルを経て、結論は、みんなが家族になってゆくということでした。私の息子、あなたの息子という概念に囚われないで、私たちの息子、私たちは一つの家族となっていっしょに生きようと。

ヨセフはマリアを妻として迎え入れ、マリアの体内に宿った子どもを自分の子どもとして守ります。家族になったのです。聖家族になって私たちの家族のモデルになりました。

今日、鈴木さんご家族が正式にこの教会の家族の群れに加わります。イエスさまを真ん中にして、私たちは家族です。この家族の真ん中にイエスさまの食卓があり、私たちはそこから糧をいただきます。しかし、マリアが結婚をする前に身ごもった姿でヨセフの前に現れたように、家族であっても、みんな違い、すぐ納得できないような姿をして私の前にいたりするのです。物事の受け止め方がそれぞれ異なる。その違いを如何に尊重できるか。違いこそ豊かさであると受け止められるとき、真ん中におられるイエスさまの存在がどんどん大きくなります。イエスさまという食卓に盛られる糧がどんどん豊かになって、訪れる人がみんな食べて満ち足り、お土産で持ち帰れるほど残りのものも溢れるのです。

そのときに、私たちは聖なる家族となってゆきます。そして、この教会にゆだねられている聖なる働き、救いの働きを躊躇することなく担うようになるのです。自責の思いや恐れや不安の中で、罪の縄目に縛られている一人一人に、キリストの赦しと自由を宣言する聖なる群れになるのです。新しい家族を迎えて、聖なる神の家族の姿を現わして生きましょう。

望みの神があらゆる喜びと平和とを持って私たちを満たし、聖霊の力によって私たちを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊の力によって。アーメン。