イエス、私を衣として
主の降誕祭説教
ヨハネによる福音書1章1~14節
イエス、私を衣として
「初めに言があった」と記すことから本日の福音は始まっています。聖書協会訳は、ことばという字を、言語の言という一字だけで記しています。それはきっと、普段使っていることばという意味と異なることを表すためでしょう。「初めに言があった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝てなかった」と。
イエスさまの誕生にかかわった人たちは皆、この言によって動かされました。
母マリアは天使ガブリエルが告げる言を受け入れ、言に従ってイエスが自分の体内に宿るように、自分を差し出しました。
父ヨセフは、夢の中で語られた言を聞いて、マリアを妻として迎え入れ、イエスの父となりました。
星に導かれて、生まれた救い主を拝みにきた東方の博士たちは、夢の中の言を聞いて、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。
イエスさまの誕生に関係するすべての人は、語りかけられた言によって、新しい歩みを始めています。そして、語りかけられた言は、そのとき一度限りのものではなく、言を聞いた人の人生の終わりまで、その人の中で輝き続け、生きるための命になりました。
文明の恵みの中で、教育の機会に恵まれ、読み書きができる私たちは、すっかり文字に慣れているので、ことばと聞くとすぐ言語に結びつけます。聖書の学びも、文字を通して学ぶものと理解しがちです。しかし、聖書を学ぶということは、神さまに近づく、イエス・キリストと親しくなる、私に与えられている五感を通して聖霊の働きかけを感じ取るということです。書かれている文字は、真の光として来られたイエス・キリストを理解するための一つの手段にすぎません。
使徒パウロも、2コリントの手紙の中で述べています。「神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします」(3:6)。
ローマの信徒への手紙の中でも、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(2:29)と述べて、霊の働き、つまり、内面に語りかけられる言こそ真のことばであると述べています。
つまりそれは、文字のことばを読んで、「はい私はそれを理解した」と言って終わるのではなく、そのことばをよくよく吟味するということです。
私たちは食べ物を口に入れるとよく噛んでから体の中に入れます。それと同じ作業をするのです。今、口の中にあるものが、甘いか、しょっぱいか、苦いか、または固いか柔らかいかをゆっくり噛みながら味わうのです。私を生かす食べ物ですから、私たちはできるだけ良く噛んで食べるようにと言われます。そうやって私たちは食べたものと一つになって生きるようになります。
みことばも同じです。よくよく味わい、それが私の中に入り、そのようにしてキリストと私が一つになって生きるようになります。
母マリアも父ヨセフも、東方の博士たちもその過程を経て、新しい道に歩み出す決断をしました。聖書にはたんたんと書いてあるので、私たちは、かれらのことを、まるでスーパー聖人のように思っているのかもしれません。しかし、かれらも普通の人ですから、語りかけられた言を吟味する時間が必要だったのです。吟味して自分と一つになるという過程を通して、自分を神さまの器として差し出したのでした。
言が命によって成っているということ。そしてそれは、人の光であり、光は闇の中で輝いているということ。この言が人となって、産声をあげました。どこで?家畜小屋の中で、マリアを母とし、ヨセフを父としてお生まれになりました。人の光となるために、お生まれになったのです。この光のゆえに、なんと闇は神の神聖、神秘を宿す場所になりました。闇はそのことが理解できませんが、光は闇の中で生きるために生まれ、その中で輝いているのです。
以前、私は、家畜小屋のことを黙想する機会がありました。イエスさまがお生まれになる場面を思い描き、そこに登場する人々や、そこに置かれている道具や家畜小屋を思い浮かべ祈っていたのです。その時、飼い葉桶の幼子をくるんでいる布のことが気になりました。そこで、「この布は何ですか」と祈りの中で聞きました。しばらくときが経って内面に響く声がありました。「それはあなたの闇である」と。
そしてその声が響いたのと同時に、それまで気づかなかった家畜小屋が見えました。冷たい風がどんどん入ってくるようなとてもみすぼらしいところで、そこに聖家族はいるのですが、その家畜小屋が今の私の人生、それまでの自分の人生を表していることに気づかされました。イエスさまが、私の人生の中に、それももっとも冷たくて汚い、悲惨な私の傷だらけの闇のただ中にお生まれになってくださったのでした。私は、そのことに気づかず、何十年も家畜小屋を遠くから眺めてクリスマスを祝っていたのです。
そうなのです。イエスさまは、私たちひとり一人の人生の中に、私の暗闇をご自分の宿る場としてお生まれになってくださいました。私の親や兄弟姉妹、友達、私の子どもも、何らかの争いが生じると、いがみ合い、分裂し、互いに離れてゆく。互いの利害の物差しに私たちはいとも簡単に巻き込まれてしまいます。
冒頭の方で聖書の学び方についてお話しましたが、一所懸命に勉強をして得た知識にも限界があります。私たちが聖書のことを学問的にたくさん学んだとしても、その知識は、私の弱さや卑しさを包んで愛してくれないのです。むしろ、自分の弱さに絶望させ、他者の弱さを指摘し、イエスさまとも損得関係を築くようにさせます。
ですから、クリスマスの出来事は、誰か偉い人の誕生日を祝うようにして過ごすときではないのです。「昔、ベツレヘムの家畜小屋で救い主がお生まれになった」ことをお祝いするためにだけ私たちが集まっているのなら、それはとても残念なことです。それは、おいしい食べ物が食卓に整えられているのに、ずっと眺めているだけ、何年も、何十年も自分のものではないように手を付けないでいることと同じです。
いただきましょう。感謝して口の中に入れてゆっくり味わいながら、食べるのです。味わったものを自分の言葉で言えるまで吟味しましょう。「私には時間がないのでそんなことまでできません」という方がおられるかもしれません。それは、悪魔のささやきです。悪魔は私たちが神さまと一つになることを望まないので、「あなたは他にもやることがあるでしょう」、「あなたは忙しいのだから」とささやいで、どんどん忙しい思いにさせ、私が自分の中の霊的賜物を生かそうとすることを止めさせます。
時間がないと思うときほど、みことばをゆっくり味わう、静かなときを持つのです。
私は、この頃、段々と仕事が遅くなってきました。すると、心がすさんできます。特に今年は大学の授業が対面になって、ルターハウスの仕事とあわせて週二日を向こうで過ごしてしまうと、本当に時間が足りなくなります。すると、やらなければならないことを数え上げるようになります。そうしていると、一人身であることを不満に思い、誰か助けてくれる家族が欲しいと思うようになります。粂井先生にそのことを呟いたら、「家族がいればその人のペースに合わせて、したくないこともさせられるし一人がいいと思うようになる。本当にやるべきことを優先するように」とアドバイスをいただきました。これでいいのだと、ホッとしました。つまり、忙しいと思うのは、仕事が多いからではなく、心が荒(すさ)んでいるからなのです。与えられたとき、与えられたことばを吟味していなかったのです。
ことばを吟味していると、知恵の目が自分の中に開かれます。それまでは、いろいろのことの責任は他者に転嫁していた自分が、みずからの内面を見つめるようになるのです。すべては私の課題なのだとわかるようになります。私の幸せのキーは私が持っているのです。そのキーを使わなければ、私の心の扉は開かないのです。イエスさまは私の内側の深いところにおられるのに、外の遠い所でイエスさまを探していたのです。
救い主イエスさまは、私を衣として、私を器としてお生まれになりました。この私の体、傷つきやすい私の心をご自分の宿る場としてくださったのです。生まれたイエスさまと私たちは、一緒に成長していかなければなりません。十字架の死を成し遂げるまで一緒に歩くのです。死ななければいつまでも復活は起きないからです。
偉大なる神様が私を通して救いの業を成し遂げようとしておられます。イエスさまと一緒に成長していく新しい始まりです。その業が、私たち一人一人を通して成就しますように。
望みの神があらゆる喜びと平和とを持ってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。