幸いか災いか、日々の選択

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マタイによる福音書5章21~37節

幸いか災いか、日々の選択

最近、ユーチューブがとても人気です。幼稚園の卒園式の中で卒園児の将来の夢をきいても、ユーチューバーになりたいと言う子どもが大勢です。しかし、ユーチューブに登場するのは若い世代だけではありません。

私がこの頃見ているユーチューブは、古い団地で、一人で暮らす87歳の女性の動画です。60年も暮らしている古い団地の一室での日々のささやかな暮らしぶりがアップされます。撮影しているのはお孫さんです。まだ2年くらいしか経っていないのに、世界中からの登録者が6万人を超え、大人気です。特別な何かをアップしているのでもなく、食事を作る様子、愛用しているもの、習い事、一日の流れ、本当に何気ない日常がアップされます。料理の際も、ごちゃごちゃしている台所での、ありのままの様子がそのままアップされますが、それが見ている人をホッとさせているのかもしれません。

その動画が本になりました。そこにはこのように書いてありました。

毎晩、寝るときに、一番幸せを感じます。今日も一日元気に過ごせて、雨露をしのげる家があって、ぬくぬくと寝られるベッドがあって、本当にありがたいと思います。・・・いろいろあった人生ですが、恵まれた87年だと思います。私はマイペースであまりがんばらないのです。どんなときでも『楽しまなきゃ損』と思い、つらい時でも楽しみを見つけます。だから、振り返ってみると、いつでも今が幸せと思ってきました。」(87歳、古い団地で愉しむ『ひとりの暮らし』)。

このような彼女の生き方が動画にはそのまま現れます。どんなときでも『楽しまなきゃ損』という前向きの生き方です。人の目を意識して必要以上に力を入れてがんばったりしないで、自分のありのままを生きておられる淡々とした姿です。

神さまはモーセを通して、カナンの地へ入っていくイスラエルの民にそのような生き方を告げられました。

見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。私が今日あなたに命じている通り、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。そすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される」(申30:15~17)と。

時々、こうおっしゃる神さまに対して、もっと分かりやすく、私の前に命だけおいてください、幸いだけをおいてください、死も災いも一緒に置くことはしないでくださいとお願いしたくなります。どちらを選べば命の道かわからなくなる時があるからです。しかし、死と命、災いと幸いは、切り離せるようなものではないことに気づくとき、自分の願望の愚かさを知らされます。命の裏側には必ず死が存在する、幸いと災いは表裏一体である。ですから、命を生きているものはすべて、死をまとって生きているということなのです。

使徒パウロも嘆いています。

私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。

キリストに出会い、その死と復活に招き入れられ、使徒と呼ばれているパウロも、死を恐れ、嘆いています。自分の中の矛盾に悩んでいるのです。心は一所懸命に神に仕えようとしているけれども、肉は罪の法則に仕えて生きざるを得ない自分がいると。

私たちも同じです。パウロと同じように、心は神に仕えようとがんばるけれども、肉体は自己満足に仕えて生きようとする、その大きな矛盾を抱えて生きています。しかしパウロは、その続きでこう言います。「主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7:25)と。つまり、人間は、命と死を対峙させて苦悩するけれども、神はそれを一つにすることができる。イエス・キリストの死と復活を通して神は見せてくださった。つまり、神の中に私たちの命と死がしっかりと抱きしめられているということに感謝し、その感謝を生きるのだとパウロは言うのです。

そんなすばらしい福音を聞いていながら、私たちはいったいどこに立っているのでしょう。まず何をすべきなのか。今日の福音は、とても具体的にその道を示しています。

イエスさまはこうおっしゃっておられます。「きょうだいに腹を立てるものは誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、ゲヘナの火に投げ込まれる」(22節)と。そして、「供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みをいだいていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(24節)と。それから、「あなたを訴える人と一緒に道を行くときには、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない」(25節)と。「右の眼があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。・・・右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい」(27~30)と。

このお勧めを私たちはどれだけ聞いてきたのでしょうか。字面ではよくわかっています。しかし、実践が難しい。その日の気分に左右されたり、同じ言葉なのに、言う人によって受け止められたり受け止められなかったリする自分がいます。必ずしも暴力的な攻撃を受けなくても、すぐ感情的になって腹を立てますし、口汚く文句を言う場合もあります。喧嘩をしてもう口を利かない人がいても、献金を祭壇の前において、まず行って仲直りしようとしません。和解すべきときの見極めもできず、自分から和解を求めることもしません。相手に対して嫌な感情を抱いて、その人を見る目が斜めになっても、片方の目をえぐり出すようなことはしていません。イエスさまがおっしゃることと、私のやっていることとは遥か遠く、自分の信仰の歩みが矛盾しているのです。これが私たちの現実なのです。使徒パウロが嘆くように、心の思いと体の動きが分離してギクシャクしているのです。

ですから、ここで大切なことは、その自分に気づくかどうか。心と体の動きが合っていない自分が見えるかどうか。見えていれば葛藤するはずです。葛藤するようになれば、そのどうしようもない自分を神さまに委ねられることでしょう。しかし、その自分が見えていなければ、誰も、神さまもどうすることができません。不平不満で一日を終え、あれこれできない日々を嘆くようにして過ごしてしまうことでしょう。

冒頭でご紹介しました87歳の彼女は本当に質素な暮らしですが、写真を撮るのはスマホではなく大きな画面のアイパッドを使い、息子たちとのラインでのビデオ通話もアイパッドを使っていました。そして、テレビも捜査も録音も便利なスマートテレビに買い替えて、映画や音楽を楽しんでいるということでした。息子からのアドバイスを聞いて、自分にはできないと思わないでどんどん活用するようにしているそうです。躊躇しない、恐れない人の姿がそこにありました。

つまり、ありのままの自分を淡々と生きるということ。腹が立つときもあり、馬鹿と言いたくなるときもあり、ちょっとしたことでしばらく口を利きたくないときもありましょう。その自分を我慢して、いい人になろう、信仰深いクリスチャンになろうとがんばるのではなく、その自分のそのままを受け止めて、自分の心の流れや体の動きに気づきながら、与えられた自分を生きるということです。

そして、寝床に着くときには、その自分が今日も生かされ、用いられたことに感謝できれば、最高の人生ではないでしょうか。

神さまは、私が何かができたかできなかったではなく、私という存在そのものに関心があります。土の器として私を造られた神さまは、私の限界のすべてをご存じです。良い人ぶりをして弱さを隠そうとしても、熱心さで飾り付けていても、神さまに私の弱さを隠すことはできません。神さまはすべてを知っておられるから、私たちが命の道を選び取らなければ壊れてしまうことをもご存知です。だから、今日も、幸いの道を歩こう、あなたが訴えられないためには早く和解した方がいいとおっしゃっておられるのです。

日々の選択、どんなときでも『楽しまなきゃ損』と思って選び取る道、そこが命の道です。自分が楽しく生きるところに神さまの祝福はすでに臨んでいます。今週が皆さまにとって幸いの道を選び取って歩む祝福された日々でありますように祈ります。