雲からの声

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雲からの声

マタイによる福音書17:1~9

大自然の中のものでいくつか私が好きなものがありますが、その一つが雲です。雲は瞬時に姿を変えますし、その色によって天気の模様もだいたいわかります。朝と夕の雲の様子が違うように、夏と秋の雲も姿が異なります。ですから名前もたくさんあって、すじぐも、うろこぐも、ひつじぐも、あまぐも、飛行機雲など、10種類以上の名前をもっています。

私は沈む夕日に照らされている雲を見るのが好きです。夕日に赤く染まっている雲は恥ずかしそうな様子で、太陽とじっくりさよならを告げているように見えるのです。天気がいい日で時間があるときは、その様子を見たくて海岸の方へ出かけます。

というのは、雲はいつも動くもの、常に流れるもののイメージが強いので、じっと夕日に照らされるまま留まっている雲は、心を落ち着かせてくれるからです。

その雲が、イエスさまと弟子たちが登った高い山の上にもありました。そこは神秘の山でした。イエスさまの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。さらに、死んだモーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合いました。この神秘の山で、そこに雲もあって一役を果たしているのです。神秘的なところに雲があるのは、聖書的には不思議なことではありません。聖書は神秘な場面で雲を現します。神さまはモーセにこのようにおっしゃっておられます。「私は密雲の中に包まれて、あなたのもとにやって来る。私があなたと語るのをこの民が聞き、いつまでもあなたを信じるようになるためである」(出19:9)と。そして40年間の荒れ野の生活の中で、神さまは雲の柱をもって民を守り、導かれました。

イエスさまが弟子たちと登られた高い山、神秘の山の様子を黙想しながら、私は雲がどんな色をしているのだろうと思いました。雲もイエスさまの顔のように光り輝いている様子を想像し、いつも見ているあの鵠沼海岸の、夕陽に照らされていた雲を思い出しました。もしそうだとしたら、鵠沼海岸の夕陽に照らされた雲からも神さまの声が聞こえるのではないかと思いました。

さて、今日は主の変容を記念する主日です。

イエスさまは3人の弟子を連れて、高い山に登られました。そこで、イエスさまの姿が変わり、モーセとエリヤと語り合った、その出来事が四旬節の前に読まれるように置かれています。それには大きな意味があります。つまり、この山の上で、イエスさまは、律法を象徴するモーセと、預言を象徴するエリヤを通して、ご自分が受けるべき受難を確認なさったということです。モーセとエリヤと語り合ったというのは、イエスさまがこれから歩まれる十字架の道が神さまの御心に適うことであることが示されたということでした。

しかしそこには、神さまの心と、現れる神秘的出来事をまるで無視するかのように、一緒に連れていかれた弟子たちの愚かさがリアルに描かれています。つまり、イエスさまにとって、そして人間の救いにとって、最も大切なことが語られ、イエスさまの姿が神秘に満ちて輝く大切な場面に、何も分かっていず、自分のことしか考えない人間の愚かさをも一緒に描かれているということです。

弟子たちは高い山の上の神秘に包まれて、我を失うほど、恍惚の中に置かれたのではないでしょうか。マタイ福音書は書いていませんが、マルコやルカ福音書は、ペトロは自分が何を言っているのか、何をどう言えばいいのかわからなかったと書いています。しかし、理性が働かない状態で出てくる言葉は、本来その人をそのまま表しているのかもしれません。ペトロはイエスさまとモーセとエリヤの話がまだ終わる前に口を挟んでこう言ったのでした。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、ここに幕屋を三つ立てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」(4節)と。

言葉でどう表せばいいかわからないほどすばらしい光景を、何とか自分のうちにとどめておきたい。私たちが写真を撮るという行為はそういう思いが働いているからでしょう。今だけしか見られないその状況を何とか納めておきたい、こういう思いは、結局、人間の所有欲から出てくるものです。

しかし、ペトロの話が終わる前に、光り輝く雲が彼らを覆いました。そして「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」(5節)という声が雲から聞こえ、山の上に響きました。素晴らしい光景を、幕屋を立てて納めておきたいという願いを申し出た人間は、雲に覆われる瞬間地にひれ伏し、恐れおののいています。そして雲の中からの声がはっきりと彼らに聞こえたのでした。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と。雲を、大自然を通して神さまが人間に語りかけておられるのです。高い山、神秘の山の上で、神さまの思いから遥か遠くに立っている人間の愚かさが指摘されたのでした。

私たちの暮らしの中には、自然を破壊し、資源を枯渇させるものがたくさんあります。先週の役員会に提案して、今年の四旬節には間に合わないということで実施を見送りましたが、プラスティックの問題があります。今はレジ袋が有料になったためにマイバックを持参していますが、そのほかにもペットボトルやビニールバッグ、サランラップ等々、私たちは実に多くのプラスティックに囲まれた生活をしています。

私たちが使っているその大量のプラスティックによって海の中がどれだけ汚染されているのかわかりません。魚がそれを食べ、その魚を私たちは食べます。きっと海の中に入って魚と話をすれば、人間の身勝手な生活が指摘されるのではないかと思うのです。

今年は実施できませんでしたが、来年の四旬節には、前もってみんなでよく学び、なるべくプラスティックから解放された40日間の生活を試みたいと思います。

プラスティックのほかにも、便利さや快適さをひたすら求めるなかで、私たちは、知らずに自然環境を壊す営みに加担している場合が多くあります。そして、こうしたことが地球温暖化をもたらし、今、気候変動が激しくなっていることを、実際私たちは経験しています。ですから、時々、大自然が私に何を語りかけているのか、雲が、月や星が、海の中のものらが何を語りかけているのかに耳を傾けねばなりません。

すばらしいものを手中に納めようとして、仮小屋(幕屋)を三つ立てましょうという提案をした弟子たち。そして雲からの声を聞いて地にひれ伏して恐れる弟子たち。この弟子たちに、イエスさまが近寄り、手を触れてくださいます。そして、「立ち上がりなさい。恐れることはない」と語りかけ、彼らの中の恐怖を取り除いてくださいました。彼らが目をあげて辺りを見回しましたが、そこにはイエスの他にだれもいませんでした。いつもの姿のイエスさまだけが彼らと一緒におられたのです。

山を下りるときにイエスさまは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」(9節)と言って、彼らの口を閉ざします。

神秘を神秘として留めるということ。そのためには神さまからの力が必要になります。人間的な力だけでは、自分が体験した神秘的光景をそのまま保つことができないのです。その力を他の言葉では「信仰」というのでしょう。信仰とは、神のことを神のこととして仰ぎ、人間のことを人間のこととして識別できる力と言えるのではないかと思うのです。しかし、ともすると私たちは、神の力をいただいて優れた人になることを、信仰的強さと勘違いしている場合があります。そこでは、人間の誇りだけが現れることでしょう。

そうではなく、イエスさまに口止めされたように、神秘を神秘のまま留めておく、そのための力を養うこと。そのためにイエスに聞くのです。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と語られた光り輝く雲からの声に従って、イエスに聞くのです。つまりそれは、一緒に生きるようにしてくださった神さまの被造物の大自然に聞く、一番近くにいる隣人に聞くということ。信仰は聞くことから始まります。

今週の灰の水曜日より四旬節が始まります。皆様の40日間の歩みが、イエスさまに聞いて営まれる恵みの日々でありますようにお祈りいたします。