誘惑

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誘 惑

マタイによる福音書4章1~11節

先週の22日の灰の水曜日から四旬節に入りました。そのはじめの主日に選ばれている福音書は、イエスさまが荒れ野へ入って40日間の断食の祈りをしておられた際に、悪魔から誘惑を受けられた場面です。イエスさまが荒れ野へ入られたのは、イエスさまのご意思というより、霊がイエスさまを荒れ野へ導かれたからです。1節では、「さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」と記されています。

どうして霊はイエスさまを荒れ野へ導かれたのでしょうか。また、イエスさまが導かれた荒れ野とはどこを指しているのでしょうか。

私が若い頃洗礼を受けたときには、教会に通うことにとても燃えていました。プールの中に沈むような形で洗礼を受けて、自分がとても神聖な人になったような気がしました。ですから、その日からは罪を犯すこともなく、清い生活ができると思っていました。しばらくはそのような日々を過ごせたのかもしれません。しかし、時が経つにつれて燃えていた心はだんだんと冷めてきて、苦手な人や相性が合わない人との関係に悩む自分を見て、神さまって本当にいるのだろうかと疑うこともありました。つまり、自分自身が自分を惑わす誘惑の手先になってしまったのでした。

霊によって荒れ野に導かれたイエスさまは、40日間の断食が終わって空腹を覚えられました。そのとき、狙っていたかのように誘惑者が近づいてきます。そして、今一番困窮しているところを刺激する話を始めるのでした。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じられたらどうだ」(3節)と。

悪魔は人間よりも神の御心を知るものと言われます。そして人間の心の深いどころの弱さや思いを見抜いています。そして、弱いところが出てきたときのチャンスを逃さないのです。

今日の第一日課の創世記3章で、悪魔は蛇の姿をして二人のうちの女に近づいてきました。創世記の3章にはこう書いています。「神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった」(創3:1)と。最も賢い蛇の姿をした悪魔は、神さまから直接話を聞いた男にはまず近づきません。悪魔がまず近づいたのは、それを男から伝え聞いた女の方でした。ここに、最も賢いという悪魔の狡猾さが表れています。伝え聞くということは、直接聞いたのと比べれば、半分以下の確信しか持てないということを、悪魔はよく知っているのです。

皆さんも伝言ゲームをしたことがあると思います。伝言ゲームでは、最初の人から伝えたことが、最後の人が聞くときにはまったく違う言葉になっている場合がほとんどです。それは、人は自分が聞きたいように物事を受け止めるからです。

神さまとの会話も同じです。創世記2章でアダムが神さまから聞いた話は、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2:16~17)でした。アダムがこの言葉を聞いたのは、まだ女が造られる前でした。女が造られて、アダムが神さまから聞いた言葉を彼女に伝えたときに、どんな風に伝えたのでしょうか。

3章で、蛇とやり取りをしている女の言葉は、アダムが聞いた言葉を膨らませています。つまり、蛇から、「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか」と聞かれた女は、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」と返事をしています。アダムが聞いたときには、「触れてもいけない」など神さまから言われていないのに、女にとっては、触れてはならない、近づいてはならないものになっていたようです。きっと死を恐れているのでしょう。

善悪の知識の木に対する戒めを、私たちはどのように解釈しているのでしょうか。長い間、教会の中では、「やはり女は騙されやすい存在だ」とか、「女のせいでアダムが戒めを犯したのだ」とか、「女は誘惑の手先だ」と、どれだけ悪いイメージを女性は負わされてきたのかわかりません。

1テモテへの手紙に、「アダムはだまされませんでしたが、女はすっかりだまされて、道を踏み外しました」(1テモテ2:l4)と記されています。ここでも女の方を批判しようとして書いています。しかし、その前に、どうして女がだまされてしまったかを考えなければなりません。そのためには聖書を批判的に読む必要があります。そのためにも、自分で考えるのです。教会の牧師や注解書のような書物に依存するのではなく、自分で考える。すっかり騙されたあの女は何ですか。誰ですかと聞くのです。そうしなければ、神さまの戒めを自分に向けられた言葉として受け止めることはできないからです。

そのときに、男でも女でも、みんな、あの創世記3章での、狡猾な蛇に惑わされた女は自分のことなのだとわかります。人から伝え聞いた言葉を自分なりに解釈しているうちには、わたしたちは常に惑わされていくことになるのです。ですから、聖書と向き合うときには、女とか男の問題ではなく、私はどう聞くか。神さまは私とどう向かい合っておられるのか、自分の今の立ち位置を常に確認することが大切です。私たちはともすると誘惑者の立場に立っている場合だってあり得るのです。実際、女はアダムにも勧めて善悪の木の実を一緒に食べたのですから。

イエスさまは40日間の断食の後の空腹というピンチの状態で、近づいてきた悪魔に正面から向かい合われました。「人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と大胆に述べて、悪魔を退けられたのです。イエスさまの言葉は伝言ゲームの言葉ではありません。神さまと直接響き合って語られる言葉なのです。イエスさまは、ピンチに状況の中でも、誘惑者の本当の姿を見抜かれ、目を地上ではなく天に向けられたのです。

いえいえ、イエスさまは優れた方ですからそういうことができるけれども、私にはそんなことなどできないと、すぐ諦めてしまいたくなるかもしれません。

しかし、私たちは忘れてはなりません。イエスさまが40日間も荒れ野で祈っておられることを。どうして神の霊がイエスさまを荒れ野へ追いやって祈らせているのか、それは、イエスさまが100%人間だったからです。イエスさまには神的な力が備わっていて、何もしなくても神さまのようになれるということではなかったのです。

しかし、イエスさまは、祈りを通して神さまに近づかれました。ご自分のその弱さを神さまに限りなく委ねられたのです。そのイエスさまを神さまはご自分の愛する子としてくださり、まさにイエスさまは神の子となりました。人の子であり、神の子でおられるイエスさまは、それゆえ、多くの弱さを持って生きる私たちのただ中へ入ってきてくださいました。私がいるところ、ここが荒れ野なのです。私たち一人ひとりが悪魔の計らいに惑わされるのを望んでおられない神さまは、イエスさまを私たちに送ってくださったのです。私たちの中におられるイエスさまとどう向き合うか、それは個人の選択です。

私たちがイエスさまに倣って、この四旬節に、もう少し祈りの時間を増やしたいです。直接神さまに聞くというときを大切にするのです。私は牧師ですが、皆さんの代わりに聞くことはできません。皆さんに必要なものは、神様と皆さんの関係性の中でのみ与えられます。私は私が聞いたことを通して説教はしますが、この説教が、皆さんのピンチのときに力を発揮するかどうかわかりません。皆さんが直接神さまから聞いたものが一番の力になります。そして、神さまの前に座って聞こうとさえすれば、神さまは必ず答えてくださいます。

始まった四旬節の皆様の日々の信仰の歩みが、どうか誘惑の手に惑わされないために、神さまに聞きながら進む歩みとなりますよう、祈ります。