道々、燃えていた

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道々、燃えていた

(ルカによる福音書24章13~35節)

人は一生涯のうち、熱く燃えるときが何度くらいあるのでしょうか。自分のことを振り返ってみると、将来デザイナーになる夢を抱くようになった中学生のとき、フランス語の先生を好きになった高校の時代、毎朝早天礼拝に通い続け洗礼に導かれた二十歳のとき、デザイナーの夢を抱いて日本で学び始めたとき、そして、日本でも毎朝の礼拝に通い続け、その中で「下着(内面の服)はどうしたの?」と胸に響くお言葉をいただいたとき…数え始めたら、たくさん燃えていたときがありました。皆さんはいかがでしょうか。

過去に固執することは、どんなにそれがいい思い出であっても良くないと言われます。それは、「今」という現実に不満をもっていることの現れだからです。しかし今日は、今の幸いを表すために過去を振り返るときを許していただきたいと思います。

先ほど拝読された福音書の二人の弟子たちも過去を振り返っている様子です。ここでまず、「二人」ということに注目したいのです。このエマオの途上での復活物語を詳しく書いているのはルカ福音書だけですが、著者のルカは、弟子たちが宣教へ出かけるときは、必ずペアを組んで出かけるようにと書いています。同じルカが記した使徒言行録の3~4章には、ペトロとヨハネがペアになって奇跡を起こし、また取り調べを受けています。パウロの物語になると、パウロは常に誰かとペアを組んで宣教に出かけています。アンデレとペアになったり、テモテとなったり、シラスとなったりします。もちろん、意見が合わなくて途中で別れてほかの弟子とペアになったりもしますが、一人で出かけることはありません。

このことは、私自身もよくわかることです。特に古くからおられる信徒の方を訪問する際には、一緒に信仰生活をしておられた方に同伴していただくとで、とても喜ばれますし、昔の状況があまりわからない私はとても助かります。

さて、エマオの途上の二人の弟子。彼らの旅はエルサレムから六十スタディオン離れているエマオという村まででした。六十スタディオンは約11キロの距離ですから、歩くとしてはちょっとした距離です。いったい彼らは、どんな用があってエマオへ下っているのでしょうか。いろいろ想像することができます。

彼らのエマオへの旅は心の重い歩みでした。従っていた方を十字架刑で失った悲しみを抱いています。さらには、イエスさまのお墓を訪ねた仲間の女性たちから、主が復活したという証言を聞いてはいても、それを馬鹿げた話だと思っていてので、もやもやとした思いの中にあり、二人はそのことを論じ合いながら歩いていました。そこへ、何と、復活されたイエスさまがさりげなく同伴されます。そして彼らに聞きます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と。すると二人は、暗い顔をしてイエスさまの前に立ち止まりました。彼らは今目の前にいる人が復活の主であることがわかりません。

私は、この場面でとってもほっとします。二人は、今、目の前にいる方が誰なのかがわからないのです。とても人間臭い姿がそこにあり、抱えている暗闇がそのまま表れていて、とても純粋な姿だと思います。そしてこういう姿が信仰生活の中にとても重要だと思うのです。心の目が閉ざされていてわからないから、悲しみを味わい、絶望に陥り、悔み、涙も流します。そして、その目が開かれたときに、悲しみや絶望の数々の出来ごとを通して自分が成長していること、涙の意味がわかるようになるのです。

今、目の前に復活の主がおられるのにその方が誰なのか知らないエマオの途上の二人の弟子。この二人の姿は、マタイによる福音書の25章に描かれている人々に似ています。マタイ25:31~46には、最後の審判のときに、人が右と左に分けられる話が記されています。王の前に連れていかれて右と左に分けられた人々は、心の目が遮られていて、自分たちがそれまでに行ったことについて語られても、その意味がわかりません。王から、「私が飢えていた時に食べさせ、喉が乾いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた」と言われると、かれらは、「主よ、いつ私がそういうことをしたのですか」と聞きます。または、左の方に分けられた人たちにそうしなかったことを言うと、かれらも、「いつそういうことをしなかったのですか」と聞きます。すると王は、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」、「この最も小さな一人にしなかったことは、すなわち、私にしなかったことである」と言われます。

つまり人は、人生の中での自分の在り方、出会いや行いのすべてを、本当はちゃんとわかっていないのです。まさか、自分の家族として一緒に生きるようにされた人が、実はイエスさまだったなどと思わないのです。または、自分が最も苦手でいつも避けて、痛い関係の中にいるあの人が、実はイエスさまだったと、人生の最後のときに言われる。つまり、イエスがどのような姿で自分と共に生きておられるのかを、人は知らないで生きているということです。

このエマオの途上の二人の弟子の姿と、マタイによる福音書の右と左に分けられた人たちの物語を黙想しながら、私はとても恥ずかしくなりました。自分の中に、岩のように大きくて頑丈なうぬぼれの姿があるのです。知っているつもりで物事を捉え、見えているつもりで物事を話し、仲間たちと一緒に聖書の学びをする際も、学ぶ姿勢ではなく、知っていることを教えようとして臨んでいる自分がいるのです。人の前でも、神さまの前でも、自分がどれだけ傲慢なものなのかを知らされました。つまり、ペアとなって共に歩き、あれこれと刺激し合うもう一人の隣人を必要とせず、一人、寂しい道、虚しい道にいて、自己満足でとぼとぼと歩いていたのです。

エマオの途上の二人の弟子は、イエスさまと食卓を囲み、イエスさまがパンを裂いて二人に渡されたときに、今目の前にいる方が復活された主、イエスさまでであることに気づきます。遮られていた彼らの心の目が開かれたのでした。そのとき、目の前におられた主はいなくなります。つまり、彼らが見えるようになったら、イエスさまの姿は見えなくなるという不思議なことが起きていますが、ここが真の信仰の始まりです。かれらの心が燃え始めました。そして彼らは互いに言うのです。「道々、聖書を解き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。かれらは、時を移さずその足でエルサレムへ戻り、他の仲間たちと復活の主に出会った喜びを分かち合いました。

二人は、復活のイエスさまが祝福したパンを裂いて渡してくださったときに、それまで見えなかった心の目が開かれました。イエスさまにパンを祝福して裂いていただくということ。エマオへの途上でイエスさまに同伴されたとき、かれらは、普通の旅人だと思いました。自分たちとあまり変わらない、もしかしたらもっとみすぼらしい姿だったのかもしれません。その方を通してかれらは霊の糧をいただきました。イエスさまがパンを裂いて渡してくださったときに目が開かれたというのは、魂の空腹が満たされたということです。

パンは人の空腹を満たすものです。霊的な空腹は霊的なものを通して満たされます。私の魂の空腹のために、その糧を与えてくれるのは誰なのでしょうか。皆さんにとって、そして私にとって、誰が真のパンを祝福して裂いてくれるのでしょうか。長い人生の道のりを一緒に歩いているその人、今自分に悩みの種となっているあの人かもしれません。そもそも、私たちはその霊の糧を心の奥底から求めていて、必要としているのでしょうか。

マタイによる福音書の人々は、その糧を、知らずに行った自分の小さな行いによって与えられています。ごく身近にいる人、何気なく通りすぎるような関係の人、または、遠くの国の誰かかもしれません。私たちが、隣人の中に共におられる復活の主に出会って、魂の渇きが満たされるようにと祈ります。

 

説教はユーチューブにアップされています(↓)

ttps://youtu.be/5QK4INlPYM8