土の器 神の住まい

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「土の器 神の住まい」

(ヨハネによる福音書14章15~21節)

 

先週の金曜日は大船のフラワーセンターへ行ってきました。ボタンはぎりぎり間に合って見ることができました。バラはまさに満開の時を迎えていて、たくさんの種類のバラがきれいに咲いていました。写真をホームページに載せていますので、どうぞご覧になってください。

先日、オリーブの会の皆さまが行かれたときには、あまりお花が咲いていなかったと聞いていたので、私が代わりに行って見てきました。バラが大好きな私は、あれだけ満開で香りいっぱいの中にいるとテンションが上がってきます。

今回は、バラとともに私のテンションをあげてくれた子どもたちがいました。年長さんくらいの子どもたちが、幼稚園の帰りにお母さんたちと遊びにきている様子でした。とても元気で、にぎやかに素足で走り回りながら遊んでいたのですが、女の子の泣き声が聞こえて振り向いてみると、素足で走り回る男の子に後ろから抱きしめられて、「やめて!」と言いながら泣いているのです。しかし、男の子はやめません。男性は女性の感性を察することが生まれながら鈍いのかと思うくらいでした。お母さんから叱られてやっと腕をほどいた男の子は、女の子が「痛い」と言っているのに、「ごめんね」とも言わず走りまわっていました。悪気はなかったのでしょう。

本日拝読された福音書では、神さまが永遠に私たちと一緒にいるために、弁護者というもう一人の方を遣わされることが告げられ、そうすることで私たちをみなしごにはしておかないとイエスさまは話しておられます。さらには、かの日のことが述べられ、その日には「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたにわかる」(20節)とおっしゃっておられます。ここで言われる「かの日」とは、いつのことを言っておられるのでしょうか。

そして本日の福音の最初の方では、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである」とおっしゃって、最後の方でも、「私を愛する人は私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す」とおっしゃっておられます。

私は、本日のこの箇所に信仰者が目指すべき道が表されていると思います。まずは、私を創ってくださった創造主から離れずにいることです。それはイエスさまのお言葉を生活の中で具体的に行うことを通して可能になり、今日イエスさまがおっしゃっておられる言葉から言えば、愛するということなのだと思います。

それこそフラワーセンターで、自分を思いきり咲かせているボタンやバラを見ながら、これこそ愛することだと思いました。そして、女の子を泣かせるまでしつこく抱きしめている男の子の姿を見ながら、そうできない自分をよく現わしてくれていると思い、自分を見つめることができました。私の中に他者の感性や思いを傷つけるものがある、悪気なく振る舞う自分の行いの中に、相手の気持ちを無視するようなものがある。それを、子どもたちがそのまま現してくれたと思いました。お花も子どもは、神さまや人の内面をそのまま現わしてくれるものだと改めて思いました。

それだけ、大人になるにつれて私たちは多くの秘密を抱(かか)えるようになったということではないでしょうか。その秘密を守るために賢く自分を振舞う術を身に着けますから、自分を通して神さまを現すことがとても乏しくなるのです。その秘密とは、人から受けた傷だったり、自分が犯した失敗だったり、恥ずかしい思いや苦しみもあることでしょう。歳を重ねることによってそれらはどんどん積み重なっていきます。そう考えると、今は長生きの時代ですから、それらの重荷を減らして、いかに楽に生きるかをよく学ばなければならないと思います。

誰にも言えなかった秘密を減らすということです。それは、誰かに話すことで減らせるとは思いません。この頃、付き合い始めた近所のテニスクラブの皆さんと、テニスが終わってからいろいろな話をする機会があります。そこで時々聞く言葉は、「このことは墓場までもっていくことだ」という言葉です。話せば楽になるのにとふつう思いますが、しかし、秘密とは、話すことによって、今度はそれが別の形をとってより重くのしかかってくることが多いのです。ですから、そう簡単には人に話せないのだと思います。どうしたら人は内側に積もったものを減らして、軽やかに生きることができるでしょうか。

イエスさまは、他の所でこのようにおしゃってくださいました。

天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う」(マタイ13:44)。

その続きでは、「天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13:45-46)

これらは、天の国を表すたとえ話です。

畑を買う人、真珠を買う商人、それは、神さまのことです。

そして、畑の中の宝や貝殻の中の真珠とは私たちのことです。神さまは私たちを見つけて、喜びのあまり、ご自分の命さえも惜しまず捧げて、すっかりご自分のすべてを売り払って私たち一人ひとりを天の国の者としてくださいました。畑ごと買い取ってくださったのです。それは、良いところだけではなく、私の中に潜んでいて私を苦しめている秘密も含めてすっかり買い取ってくださったということです。それによって、神さまの中に私がおり、私の中に神さまがおられる関係になったのです。つまり、神さまは私が隠そうとしている秘密のすべてを全部知っておられるということです。

しかし私たちは、神の前にいい子でいようとし、自分の長所を通して神さまを信じようとします。自分ができることを通して信仰を現わそうとするのです。そして、神さまのことを、自分の良い所を強くしてくださる方として理解しています。それによって、自分の弱さや欠点をもっと上手に隠そうとするのです。

それは、神さまを自分勝手に奉る(たてまつる)信仰にほかなりません。そのように神さまを奉るようになったとき、私たちの教会は変質していきます。神さまを教会に閉じ込めておこうとし、さらに牧師や神父を教会の中に閉じ込めようとします。これはしてはいいけど、あれはしてはならないという思いにとらわれ、正しい人だけが神の国に入る教えをするようになります。そうすることは、一見、聖なる姿をして敬虔そうに見えますが、実は、その人自身が神の座に座ろうとしていることにほかなりません。

神さまは私たちが秘密にしている傷や弱さや失敗の多くを含めて、私を宝としてくださいました。いいえ、むしろそれらの秘密こそご自分の住まいとして、聖なる光をそこに灯してくださっているのです。それは、お母さんが自分の子どもの弱さを知っているのと同じです。親は子どもの中でも、多くの弱さを抱えている子どもに愛情を注ぎます。だから母親は神さまを現していると、ある人は言ったのでしょう。母なしで生まれた子どもはいません。子どもにとって母親は神さまです。世界のすべての母親に感謝いたします。

その母なる神さまに対して子どもとしての役割があります。母が愛してくださっている自分の弱さを自分も大切にすることです。自分の秘密をずっと隠して暗闇の中に放置してしまうのではなく、それを知っていてくださる方の前にそれを差し出すのです。それは、自分の秘密の中に神さまを迎えることであり、そこで聖なる癒しをいただくことになります。そしてそれらを通して神さまを現す尊い器となってゆくのです。そのときに、あのボタンやバラのように、子どものように、ありのままの美しい自分を咲かせることができるのではないでしょうか。神さまに造られたままの自分を咲かせることが、創造主なる神を現す生き方なのです。きっとそのときが「かの日」と言われる時であり、神さまと私が一つになるときです。イエスさまの香りが私たちの人生の中に漂うときです。そしてそれが自分を大切にして、自分を愛するということなのです。

 

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