あなたをずっとずっと愛してる
あなたをずっとずっと愛してる
(ヨハネによる福音書14章1~14節)
ゴールデンウイークを迎えた先週は風が強く吹いていた一週間でした。今朝の雨でやっと風が静かになりましたが、私にとって風はいろんなインスピレーションを与えてくれます。5日の夜、強風が吹いている空を眺めていました。風に流れる黒い雲の合間に見えるまん丸いお月様が凛としている姿にすっかり惚れて、じっと見つめていました。周りは強風に流されてどんどん変わっていくのに、お月様は凛として果たすべき光を放っています。そのお月さまから挑戦されたような気がしました。
さて、先ほど拝読された福音書の中でフィリポがイエスさまにこのように願っています。「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と。するとイエスさまは、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか。私を見たものは、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父を示してください』と言うのか」とお返事をなさっておられます。そして最後には、「私が父のうちにおり、父が私のうちにおられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」と言われました。
見ているのにわかっていない。一緒にいるのに、その人がどんな人なのかわからない。何年、何十年一緒に過ごした夫婦でも、「この人が何を考えているのかわからない」と言います。親子の間でも「この子がいったい何を考えているのか分からない」と親は嘆きます。
恐竜の絵本のティラノサウルスシリーズの中の「あなたをずっとずっとあいしている」という話をご紹介したいと思います。ティラノサウルスは、恐竜の中でももっとも乱暴で、他の小さな恐竜を食べる肉食恐竜です。
ある日、赤い木の実を食べて生きる恐竜のマイアサウラのお母さんは、林の中に小さな卵を見つけました。「この卵がもしあの恐ろしいティラノサウルスにでも見つかったら、食べられてしまう」と思い、お母さんは自分の家に持ち帰ります。そして、自分が産んだ卵と拾ってきた卵を、「はやく、元気に生まれてきてね」と、同じように毎日優しくなでて抱きしめるのでした。それから何日かが過ぎて、バキッ、パキッ、赤ちゃんたちが生まれました。お母さんは大喜びでした。しかし、林の中で拾ってきた卵から生まれたのは、なんと、あの乱暴ものの肉食恐竜のティラノサウルスの赤ちゃんだったのです。お母さんは悩みました。「この子が大きくなったときに自分がティラノサウルスだとわかったら」と思うと途方にくれました。それでお母さんは、夜、寝ているティラノサウルスの赤ちゃんをそっと抱いて、以前拾った場所まで出かけてそこに置きました。しかし、どうしてもそのまま帰ることができません。そして結局、家に連れて帰ります。それからお母さんは、自分の子の名前をライトと呼び、ティラノサウルスの子どもをハートと呼んで、全く同じく愛情を注いで育てます。
ある日、ハートが赤い木の実を採りに林の中に入ると、そこで自分と同じ姿をしたティラノサウルスに出会います。ティラノサウルスは、ハートからマイアサウラの匂いがしたので、ごちそうと思い、襲い掛かろうとしますが、自分と同じティラノサウルスの恰好の子どもだったので驚きました。それで、ハートに向かって、「あなたは爪が鋭くて牙がギザギザ、からだがゴツゴツ、このおれさまと全く同じティラノサウルスなのだ」と言ったら、ハートは、「私はティラノサウルスなんかじゃない。私はマイアサウラなのだ」と言って泣きながらお母さんの所へ走って帰ります。家に帰ったハートはお母さんに聞きます。「母さん、僕はティラノサウルスなの?僕は母さんの子じゃないの?」と。するとお母さんは、「あなたは私の大切な子、私の宝ものよ」と言って、ぎゅっとハートを抱きしめるのでした。この話はまだ続きますが、今日はここまでにします。
さて、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」という求めに、「こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか。私を見たものは、父を見たのだ」とおっしゃるイエスさまとフィリポのやり取りに思いを寄せたいと思います。
子どもはその親を現すと言われます。歳を取って私は自分がだんだんと母親に似てきていることがわかります。母に似ていく自分が嫌だと思いますが、しかし、私の中の遺伝子は母からのものですから、似ていくのは当然なことです。
生まればかりの子どもにも、「母親に似ている」とか、「父親に似ている」と言います。ときには、「この子の親に会ってみたい」と思います。大谷翔平選手のお母さんの顔がマスコミに映らないことで、大谷選手のファンは不満です。それだけ、子と親は切り離すことのできない絆でつながっています。
しかし、それにも関わらず、人は、フィリポのように、その強い絆をばらばらにして物事を捉えようとするのです。現れているものを見ようとしないで、別のところに自分の根拠を探そうとします。つまり、「私は知っている」という傲慢さのゆえに、私たちは物事をありのままに見ることができないのです。だからイエスさまは、「私が父のうちにおり、父が私のうちにおられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」と言ってフィリポの内面の深い所に触れられるのでした。複雑に考えようとする人間をご自分の単純素朴さの中に招き入れてくださったのでした。
つまり、親に愛された子どもは、自分の子どもを愛する人になります。親から虐待された子は子どもを虐待する親になります。これはとても単純で明瞭なことですが、自分の子を虐待しながら、その子に人を愛する人になってほしいと願う、そんな矛盾を私たちは抱えているのです。私たちの場合はどうでしょうか。私たちが神に似せて造られたと聖書が証していても、自分の中から神さまを現わそうとも、隣人から神さま見ようともせず、どこか遠くから神さまを探していたりしないでしょうか。矛盾しているのです。
教会の役割は、そうした矛盾の中に生きる私たちが、単純素朴なイエスさまの道に帰ることを促すことです。虐待を受けた子も、愛することを学べば愛する人になります。ですから、幼稚園の働きはとても大切で、私たちは幼稚園の働きのために一所懸命に祈らなければならないと思います。神さまの愛を現す働きを教会が、私たち一人一人が担うのです。
先ほどの絵本の話でもあったように、生まれる時は爪が鋭く、牙がギザギザで、体がゴツゴツなティラノサウルスでも、愛されて育てられれば、弱いものを苛めたりしない、むしろ愛するティラノサウルスになるのです。体はティラノサウルスだけれども、心は優しいマイアサウラなのです。マイアサウラのお母さんの愛によって育てられたので、弱さや命を大切にする恐竜として育ったのでした。
それは、無条件に他者を愛するマイアサウラのお母さんの愛があったからです。神さまは私たちをそのように愛してくださいます。その愛を具体的に現わしてくださったのがイエスさまです。イエスさまは、私の隅っこ、私の弱さの中におられ、そっと私の行く道を導き、私の歩みを支えておられます。つまりイエスさまは、ひとりぼっちの人と共に生き、世間から必要とされず追いやられた人々と共に生きておられます。その愛は、あの黒い雲が強風に流されていた夜空の月のように、凛として決して揺らがない愛です。私がどんなに疑って、神などいないと叫びたくなるときでも、私が泥のような罪のただ中にいるときでも、私を愛し、私と共に歩まれます。
私たちは、その愛をいただいているのです。その愛を伝え、神の業を現すために呼ばれています。マイアサウラのお母さんのように、大きくなったら自分と自分の子どもがその餌食にされるかもしれないティラノサウルスの子どもを限りなく愛するのです。愛することを止めず、自分の子どもと同じように育てあげる一方的な愛、そのような神さまの愛が今日私たちに注がれています。さあ、その愛を伝えるために今週も出かけて行きましょう。
グループの現状
私は80才になりました。
永嶺 純子
私は生まれてから23才まで名古屋で育ちました。3才で終戦、そして次の年の9月から幼稚園に通うことになりました。入園したのはなぜかキリスト教の幼稚園でした。両親は信者ではありませんでしたし、4才のこどもには徒歩で通うには少し大変だったくらい遠かったし、両親がどうしてその幼稚園を選んだのか、長い間分かりませんでした。名前は「みそのえん」、藤沢の聖園女学院の姉妹園だったのです。
「園長先生はふじさわにお出かけです」と時々聞かされて藤沢は私の知るところとなったのでした。遠い記憶の中のみその園で、私は「てんの おとうさま」で始まるお祈りを覚えました。そして、クリスマスページェントやお遊戯会の思い出。たった1年半であっても私の幼い心にイエス様のまかれた種は育ち始めたに違いありません。
中学からの10年間は、これも両親のすすめでカトリックの学園に通いました。日々聖歌を歌い、「思いと言葉と行いとによって・・・」とそらんじながらも、私は少しも神様に向き合っていませんでした。
結婚を決めた相手の実家が藤沢だと知った時は少々驚きましたけれど、4人の子ども達の幼稚園は実家近くの(これが第一条件)ルーテル幼稚園に迷わず決め、ルーテル教会との長いお付き合いが始まりました。幼稚園・教会学校の保護者として教会に通い続けた私は40才になった時、「私の人生は半分過ぎてしまった」と、なぜか強く思ったのです。
健康に自信があったので、80才までは生きられるだろうと常々考えてはいましたが、後半分の40年をどう生きるかは、大問題でした。ちょうどその時芝先生の薦めもあって洗礼を受けることになったのは不思議です。「洗礼を受けようと思う」と話した時、「お前は選ばれたんだね」と感慨深げにつぶやいた父の言葉は忘れられません。
両親が、昔、みその園に私を通わせようと決めた時、こんな日がいつか来るかもと考えていたのでしょうか?幼い時に主を覚えさせてくれた両親に、そして逆らってばかりいた私のそばを離れずにしっかりつかまえて下さったイエス様に、唯々感謝しかありません。
私は80才になりました。でも、神様のデザインされた私の人生は、まだ終わっていません。最近「感謝の過去をさらに大きな未来に希望につなぐために、奮って現在に起ちましょう」という言葉に出会いました。今の私にぴったりだと思います。
本の紹介
今回は、長い間、ルーテル学院大学で教えておられ、今はアメリカに帰られたケネス・デール先生が書かれた本をご紹介します。「聖なる神秘の黙想」と書いてあるどおり、私たちの信仰生活にとても役に立つ書物です。ぜひ読んでみてください。
「神とは誰か?どこにいるのか? 伝統的な『天の父』のイメージを覆す『生ける神』の証し。『ある意味で、日本は現代社会の中で最も世俗化した文化の一つでしょう。しかし、それでいて日本人の皆さまはスピリチュアルニーズ、あるいは宗教的な深い求めを満たすものをやはり心の深いところで求め続けているように私には感じられるのです。私は、その日 本人の皆さまがそうして深く求めているところのものは神の声なのだと信じています。そして、ここに私が試みました一つのアプローチは、きっとそうした皆さまにはお役に立てるのではないかと思うのです』(「日本の読者の皆さまへ」より)。