証人

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証 人

ルカによる福音書24章44~53節

時々、説教の感想を言ってくださる方がおられますが、それを伺って驚くときがあります。私が伝えようとしたこととは全く違う聞き方をなさっておられて、そういうふうにも聞けるのだと驚きます。そしてときには、私が伝えた以上に深く、広く聞き取っておられることに感動します。み言葉の中に聖霊が働いておられることを信じざるを得ません。そして自分の理解がいかに狭くて自分中心なものかを思い知らされます。

今日は昇天主日です。

イエスさまが死者の中から復活なさって、四十日間地上におられた後に天に昇られたことを記念する日です。十字架刑の死の別れで深い悲しみの中にいた弟子たちに会われ、復活のみ姿を見せてくださり、真の平安の中にかれらを招いてくださった恵みの時間。しかしそれもつかの間、別れのときがきたのです。

しかし、十字架の死の別れのときとはまったく違って、弟子たちは、悲しんでいませんし、人を恐れて閉じこもるような様子もありません。むしろ、イエスさまを天に見送ってから大喜びで都に帰り、神殿の境内に留まっています。何が彼らをそこまで変えたのでしょうか。

新型コロナウイルスの扱いが5類になり、学校の授業や会議などが対面で行われるようになりました。施設への訪問も制限が緩和され、少しは自由にお訪ねできるようになりました。

3年間、コロナと共に過ごす中、教会もいろいろなことを留意してきました。衛生の面では当然なことをしてきましたが、しかし、本来の教会の在り方としてはどうだったのかが問われていると思います。それは、私たちの教会のみならず、日本ルーテル教団を全体的に見てのことです。

教会の2千年の歴史の中にはいろんな出来事がありました。戦争の経験、教会の分裂などを経て今に至っています。その中で、特に教会がひどい立場に立たされていたのは、世の権力による迫害です。どの時代も、政治的争いの中に巻き込まれる教会は、常に弱い立場に立たされ、罪のない人々の命が大勢失われる迫害を受けました。しかし教会は、そのような迫害の中で成長するのです。

イエスさまは弟子たちを派遣する際、当然、迫害を受けることを前提でこう話されます。

(あなたがたは)今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑も百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける」(マルコ10:30)。

それゆえ、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する』」(ルカ11:49)。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ21:12)。

イエスさまご自身が迫害を受けて十字架刑にされ、死なれたのでした。本日の福音の中でもイエスさまは言っておられます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と。弟子たちも同様な道を歩むことになることを、イエスさまはよく察しておられ、このように迫害の予告をしてくださったのです。

しかし、イエスさまのこの話をきいても、弟子たちの信仰はまだ根っこが浅く、十字架の下からみんな逃げてしまったのでした。

この弟子たちの姿は、コロナ禍における私自身の、そして私たちの教会の姿ではなかったか。世間からの批判や常識から外れてゆくことを恐れて、扉に鍵をかけて閉じこもっていたのではないだろうか。ウイルスによって生活が困難になった人々の困窮と不安を共有してきたのだろうか。イエスさまがそうであったのように、キリストの頭なる教会が、緊急事態のときに、危険にさらされる立場を拒んでいたのではないだろうか。

ときには、教会は無防備の道を選ぶのです。キリスト者は、何よりもまずみんなの安全のために働くように呼び出されている者です。しかし、私自身は自分の安全を優先してきたのではないだろうかと振り返ります。

私たちは、コロナ禍の教会の姿をどういうふうに証しできるのでしょうか。

本日、イエスさまはこう述べておられます。「次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。またその名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である」(46~48節)と。

弟子たちをご自分の名によって起きることの証人として遣わしておられます。ご自分の名によって起きることとは、「罪の赦しを得させる悔い改め」だと。つまり主の弟子としての働きは、主の名によって起きる「罪の赦しを得させる悔い改め」の出来事を証言することだと言うのです。

罪の赦しを得させる悔い改め」。

以前、イエスさまの十字架の死に躓き、部屋の中に閉じこもっていた弟子たちは、まだこの「罪の赦しを得させる悔い改め」を体験せず、それで自分たちを迫害しようとする人々を恐れていたのでした。キリスト者であっても、「罪の赦しを得させる悔い改め」がなければ、何の働きも担えないのです。まずは自分自身が「罪の赦しを得させる悔い改め」に与った上で、それを証しできる「証人」として遣わされるということなのです。

法的事柄の中においても、一つの事件を取り扱うためには、必ず「証人」または「証拠」が必要となり、「証人」や「証拠」がない事件は解決が難しくなります。それで、「証人」という言葉を調べてみました。こう書いてありました。「訴訟(そしょう)法上、証人とは、裁判所または裁判官に対して、自己の経験から知り得た事実を述べるように命ぜられた者をいう。・・・

証人は、原則として、何かを問われた際に、必ず答弁しなければならない」と。

証人とは、「自己の経験から知り得た事実を述べるように命じられた者をいう」というのです。

自己の経験」。目に見える現場で起きたことをありのまま証言することは難しいことです。ましてや、目に見えない内面で起きたことを証言するのは、もっと難しいことです。なぜなら、本人自身もわからないからです。「罪の赦しを得させる悔い改め」と聞けば、言葉の意味は何となく分かるとしても、それを内面で経験するのは、自分の力ではできないことなのです。

ですから、私たちがするべきことは、送ってくださると約束された、もう一人の弁護者、聖霊を待つことです。「上からの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」とイエスさまに言われたように、上からの力に覆われるときを待つのです。あれこれをしながら待つのではなく、静かに一つの場所に留まって祈りのときをもちながら待つのです。

「都に留まるように」と言われた弟子たちは、自分たちが一番恐れていた都に帰ります。そしてそこに留まります。かれらは、昇天なさるイエスさまのお言葉を信じました。都の神殿の境内に留まって、賛美と祈りを献げながら、上からの力を待っている彼らの内側は喜びに溢れています。

私たちにも恐れて避けている場所がありませんか。その恐れのために閉じこもっていく、そこへ帰っていくようにとイエスさまは私たちに勧められます。そこが、実は、自分が留まるべき場所、自分にとって一番ふさわしい場所だというのです。けれども、私たちは、忙しいから、疲れたからと言って、他の場所を優先して、その最も大切な場所を避けてしまいます。それは、聖霊の導きがなければ、毎週の主日礼拝に来られないのと同じことです。自分の意思では、教会に来ることはできません。それでも、あえて自分と闘って、何が何でも日曜日には教会に行く日と決めてやっているうちに、上からの力をいただくのです。

上からの力が伴われるときにのみ、私たちは自分を差し出すことができます。イエスさまの名によって起きる「罪の赦しを得させる悔い改め」を経験するからです。悔い改めの出来事が起きれば、私は、自由になり、内面にあった恐れや不安から解放されます。

イエスさまは、私たちをご自分の名を納める器として大勢の中から選び出してくださいました。「罪の赦しを得させる悔い改め」を証しする「証人」として遣わされるためです。私たちが、私たちの教会が、世の終わりまで神さまの証人としての働きを担う働き人として用いられること、今そのスタートラインにいることを信じます。