生ける水

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生ける水

(ヨハネ7章37~39)

先週の金曜日、金浦空港で、お母さんに抱っこされてお菓子を食べていた6カ月くらいの赤ちゃんが、私と目が合うと、そのお菓子を私に渡そうと手を伸ばしてくれました。私は笑いながら「私にくれるの?」と聞いたら、もっと手を差し伸べるのです。そのとき、この子にはこのお菓子は自分のものではなく、ただの食べ物なのだということが分かりました。そして、私は気づきました、どれだけ私が所有欲のとりこであるかということ。すべてのものに「私のもの」というレッテルを貼りながら生きているのです。

さて、聖霊降臨祭に選ばれた福音書は、私たちにこう告げます。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語っているとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」と。

都の神殿に留まって祈っていた人たちの上に聖霊が降り、それによって人々は地の果てにまで出て行く、福音を伝える教会が誕生したのです。

イエスさまは、生ける水の流れが、ご自分を信じる人の内にあるとおっしゃいます。どうでしょうか、私たちはイエスさまが言われる生ける水の流れが自分の中にあることがわかりますか。

水の流れの起源は、エデンの園にあった一つの川です。

創世記2章10節には「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し」と記されています。そしてその一つの川から分かれて四つの川となり、第一の川はピションと言い、金を産出するハビらの全域を巡ります。第二の川はギホンと言い、クシュ全域を巡ります。第三の川はティグリスと言い、アシュルの東の方を流れます。第四の川はユーフラテスです。西アジア、現在のイラクを北西から南東に並んで流れる大河で、ペルシア湾に注ぎ、人類最古の文明とされるメソポタミア文明がユーフラテス川沿いから生み出されるようになります。

一つの川から四つの川の流れが生まれます。それは、東西南北を指し、一つの川から世界のいたるところへまで水が流れ出しました。地の果てまで流れ、それによって、人々は川を中心にして文明を生み出しました。川は人々の暮らしを助け、命を守り生かしてきたのです。

しかし、いつからか、川の流れによって潤されるはずの大地が怒り出しました。人に命の糧を差し出す大地が怒り、人を呪うようになったのです。今、世界各地では干ばつが続き、飢え死にしていく人がどれほど増え続けているのかわかりません。

干ばつ問題は、日本では他の問題に比べてあまり実感されていませんが、多くの国々では、他の自然災害と同じく、気候変動による重大な影響の1つとして注目されています。2022年には、23億人が水の不足に直面し、約1億6千万人の子どもが深刻な干ばつにさらされていて、それは長期化していくと言われています。

梅雨があり、冬には雪が積もるような日本は、干ばつをあまり経験していません。しかし、薄々と感じるのは、今年も桜の開花が早かったし、桃の花やリンゴの花が一期に咲いて、果物の農家が大変だったことを聞いているように、季節の感覚が狂い始めています。まだ春なのに昼間は夏の暑さを感じさせ、5月の半ばには気温が30度を超える日もありました。

気候変動、温暖化の原因は、私たちにあります。経済成長こそ人の生きる道だと思い込み、お金を生活の中心においてきた人間の在り方は、結局、互いの命を軽んじて殺し合い、血を流す戦争を起こし、優劣を分ける厚い線を民族と民族の間に引いて、対立を促してきたのです。経済を中心に据える限り、「私のもの」と「あなたのもの」の区別はますます深刻になり、奪い合う競争社会の在り方は避けられません。

こうした人の生き方に大地が怒りだし、茨やアザミを生み出し、大地自ら荒廃し、干ばつをもたらしたのです。人間のためにそう簡単には実りをもたらさなくなりました。

それは、海も同じです。海も潮をあげて怒りを発しています。人間の生き方に怒っているのです。放射能の放出、プラスティックの氾濫によって、海や海の中の命あるものが大きな被害を受けています。

ペンテコステの日に、環境問題のことをお話していますが、それは、私たちが今どこに立っているのかを確かめるためです。

私たちは、初めに一つの流れから生じた四つの川の流れの中に生きるように造られた者です。神さまの与えてくださった流れのほとりに生きるように造られたのです。しかし私たちは、その流れのほとりを自分の居場所として生きているのでしょうか。神さまの命の川に水路をつくり、水で自分の魂の畑の渇きを癒し、毎年、新しい種を植えて豊かな実りを収穫しているのでしょうか。愛や喜びや平和、寛容、親切、善意、誠実という実りを結びながら生きているのでしょうか。誰かによって、または何かによって、神さまから流れ出た川の流れを止めたり、汚れてしまったりして、飲むのが難しくなっていないでしょうか。

先週は日韓宣教協力委員会があってソウルへ行ってきました。外へ出て見て今自分がいるところがどれだけ恵まれているのかを確認するのですが、今回も一つ、水のことをありがたいと思いました。私がソウルに住んでいた30年ほど前は、歯磨きに使うにも嫌と思うほど水が良くなかったのですが、今はとてもきれいになりました。しかし、人々は飲み水をペットボトルで買っています。売っている水の中でも、各家庭の好みが違います。済州島の水が人気でしたが、ヒマラヤから運ばれた水も売られています。

それだけ、体に良い水を私たちは求めています。渇いているのです。

今日、イエスさまは、「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」と招いておられます。イエスさまは、私たちの魂の渇きをご存じなのです。

しかし、ここで大切なことは、イエスさまは、「私のところに来て飲みなさい」とおっしゃっておられるのであって、「イエスのところへ来て飲みなさい」とは言っておられないということです。「私のところ」という場合と、「イエスのところ」と言う場合の違いがあります。「私のところ」という場合は、私って誰なのだろうという問いかけが生まれます。しかし、「イエスのところ」と言う場合は、その問いかけはありません。イエスという方を知っているからです。知っていれば、それ以上に問いかけるようなことはしません。

ですから、「」、「私のところ」という、それはいったい誰をさし、誰のところなのだろうと問いかけるときに、イエスさまと私との関係が具体的に知らされます。聞くのです。「『』」というその「」は誰ですか。」そして、「『私のところ』というそこはどこですか」と問いかけるのです。そのときに、この私の渇き果てた魂の真ん中におられるイエスさま、渇きからくるあらゆる困難をすべて受けながらこの私を支えておられるイエスさまが見えるはずです。

そのときに、一つの川から流れ出たものがどこでどのように閉ざされて私の方に届かなくなったのかが分かります。私たちの魂のすべてのトラブルは、イエスさまと出会うことなしには解決できないからです。イエスさまと出会うときにのみ、私たちは、私のものと思い込んで背負っているあれこれの重荷を神さまの前に降ろして、軽やかに歩き出すことができます。

私たちには、エデンの園から流れ出た川の流れが、私を通して次の世代に流れ出るようにする使命が果たされています。次世代に残すものは、財産のような目に見えるものではなく、命の水の流れだけでいいのです。その流れのほとりには多くの実りがあるからです。聖霊の九つの実り、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5:22)が生ける水の流れのほとりで結ばれるのです。それが、イエスさまを信じる人の証です。

みなさまの人生の歩みの中に流れ出る生ける命の水の流れによって、渇き果てた多くの人々の魂に潤いがもたらされますように祈ります。