誰でも来なさい
マタイ11章16-19,25-30節
アッシジの聖フランシスコは裕福な家庭で生まれ、贅沢な生活をし、放蕩の限りを尽くしていました。彼の回心の一つのきっかけが伝えられています。ある日、一人の乞食が訪ねてきました。そして、「神様のために何かお恵みを」と言って物乞いをしたのですが、その日はとても忙しい日でしたし、フランシスコはきっぱりとこの乞食を追い返しました。乞食の姿が見えなくなって、彼は思いました。「もし、あの乞食が高い地位の友人の所から来たのだったら、自分はどう対応したのだろう」と。「自分が知っている貴族の紹介状でももっていたなら、あのように追い払うことはしなかったであろう」と。「ところがあの乞食は、『神様のために』と言っていたではないか。王の王、主が遣わした者なのに、何もやらずに返した」と。
このことがあってから、フランシスコは、神のみ名の下に物乞いをする人には、必ず施しをしたそうです。これは、彼がまだ家を出る前の話ですが、このことがきっかげになって、裕福な人たちから見捨てられている人たちが少しずつ彼の眼中に入るようになります。彼の中の幼子が目覚め始めたのでした。
さて、先ほど拝読された福音書の28節ですが、そこでイエスさまは「すべて重荷を負って苦労している者は、私に来なさい」と言われます。ここで言う「すべて」は、ギリシャ語では「パンテス」という言葉で、それは「全体」という意味です。英訳では「オール」と訳していて、今私たちが使っている聖書協会訳の「すべて」と似ていますが、新共同訳聖書では「誰でも」と訳しています。すなわち、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という訳になっています。
「すべて」とか、「オール」という表現は漠然な感じがしますが、「誰でも」となると、もう少し具他的な形で人が見えてくるような感じがします。それで、あえて説教のテーマを新共同訳の「誰でも来なさい」にしました。つまり、「誰でも来なさい」という場合、私の中に麻痺していた何かが溶けるような思いがしましたし、「誰でも」という言葉の中に自分が招かれていると感じたからです。
イエスさまは、その前の25節で、「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して幼子たちにお示しになりました」とおっしゃられました。ここでおっしゃる「これらのこと」とは、「福音」のことです。福音が知恵ある者や賢い者には隠されていて、幼子たちには示されているとおっしゃるのです。私たちは、福音を理解するためには知恵や賢さが必要だと思いますが、イエスさまは、そう言う人たちに福音は隠されているとおっしゃいます。
知恵や賢さは、大人が所有するもので、小さな子どもたちにはないものです。ですから、大人ではなく、子どもこそが福音を知っている、いや、知っている以上に、福音の中を生きているのです。
このイエスさまのお言葉とおり、私は、幼稚園の子どもたちを見ていて、この子たちは本当に福音をそのまま生きていると実感します。私が子どもたちに会うのは、誕生会や水曜日の聖書のお話のときですが、そのほかに、園庭や年長組の部屋の窓の外を通るときも、私を見つけると、「やんせんせい!」と呼んで、子どもたちが集まって来ます。なんと嬉しいことでしょう。私の息子がここに来たときにも、子どもたちが何度も私の名前を呼ぶのを見て、「とても人気じゃん!」とうらやましがれて、得意気な気分になりました。
受け入れられている、その群れの中に招かれているときの嬉しさを、私は幼稚園の子どもたちを通して味わっています。
本日のイエスさまのお言葉に沿って申し上げるなら、それは、幼子に示された福音の中に自分が招かれているという確信から来る嬉しさでした。そしてその招きは、失われている私の中の幼子を目覚めさせてくれる大きな力になります。ですから「やんせんせい~」と呼ばれたら、私も、そのお招きありがとうと伝えたくて、必ず、「は~い」と返事をしています。
私たち大人はいつの間にか自分の中の幼子を失ってしまいます。本当は初めからあったのに、知らないうちに見えなくなります。大人になるために、自分の中の幼子を退けてしまうのです。なぜなら、幼子は、一人では何もできず、周りの助けを必要とする者だからです。幼子は純粋ですが、たくさんの不器用なところを持っています。食べ物や着る物や住むところという基本的なことなど、何もかも大人の助けを必要とします。ですから、できるだけ早く幼子とさようならして、立派な大人になろうとしてしまうのです。
しかし、そうやって表面的にはいろいろのことができるようになって、立派な大人になっても、幼子はいなくなったのではありません。眠っているだけです。イエスさまは、私たちの中に眠っているその幼子を見つめておられます。イエスさまにはわかるのです。どんなに立派な大人の顔をしていても、その人の中には純粋で神さまと通じる幼子が眠っているということを。そして眠っているその幼子をじっと見つめておられます。
そしてその幼子は、私たちが神さまと通じるところなのです。神さまの福音は、私たちの中の幼子を通して私たちに入ってくるのです。私たちが神を理解し、神の国を生きるようになる導き手は、神学的な学問や教理のようなものではありません。大人の知恵や賢さではないのです。私たちの中の幼子こそ神さまを知り、神の国を生きる者なのです。
ケネス・デール先生が書かれた「神はいずこに」という本を多くの皆さんが買われましたので、きっと読んでおられることと思います。デール先生は、私たちがもっている疑問点を取り上げて、一冊の本にしてくださいました。その中には、全能の神様についての問いかけもありました。私たちは祈るときに、全能の神様という言葉をよく用います。教団から送られてくる週報の中の「今週の祈り」にも、全能の父なる神様と言う表現がたくさん使われます。
全知全能で力強く絶対的な力をもっている方としての神について、デール先生は「これが本当に私たちの主なのでしょうか」と「神はいずこに」の中で問いかけておられます。つまり、神が全能であり、絶対的な方であるなら、どうして自然災害が起きて大勢の人が犠牲になるのを止められたり、人が癌や事故によって死を迎えるのを防いたりできないのだろう、ということです。
つまり、聖書の神は、人や自然界やこの世界をコントロールするような方ではなく、神の身分でありながら死に至るまで従順にみ旨に従われた、あのキリストの姿に他ならないということです。ご自分ではまるで何もできない幼子のように、みすぼらしい乞食のように、ひたすらみ旨が示すまま、しかし大胆に福音が示す道を歩まれる神の姿です。
そしてデール先生はその隣のページで、神の似姿について書いておられます。
聖書は私たちが「神の似姿」に造られたと述べているけれども、私たちはどのように神に似ていますか。そして神は、どのように私たちに似ておられますかと。デール先生はおっしゃいます。私たちと神は「共同創造者」であると。その意味は、大国同士が敵対し合い、戦う道を選び取るとき、それを批判し、その状況を落胆してばかりいないで、私は、自分がいるところで平和を実現していくための道を隣人と共に見つけ出す働きをすることで、神に似ていく、神に似せて造られた姿を現わしてゆくのだと。
そして最後にデール先生は、こう書いておられます。
人が神の似姿に造られたというのは、すべての人、つまり誰にでも当てはまることであると。もし、神の似姿が人類全体に当てはまらないのなら、誰にも当てはまらないのですと。
私が憎んでいるあの人も、まさかあの人がと思いたくなるその人も、神に似せて造られた一人一人であるということ。神の招きに漏れてもいい人は誰もいないということです。
イエスさまは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)とおっしゃっておられます。
聖フランシスコは、「神様のために何かお恵みを」と言う物乞いの言葉を通して目覚めました。私たちの中の幼子は、どんな言葉によって目覚めるのでしょうか。「誰でも来なさい」と招くイエスさまのお招きの声を聞くのは誰なのでしょうか。神と共同作業するために用いられる私たちの中の幼子を目覚めさせて、福音が示す道を堂々と歩みましょう。