共に生きる
共に生きる
マタイによる福音書13章1~9,18~23節
「人は生きているだけで大成功なのです」。
これは、ダウン症の娘さんと共に生きる書家の金澤泰子さんの言葉です。娘さん、金澤翔子さんは、30歳になって一人暮らしをはじめ、今37歳。彼女は魂の書を書く書家として知られています。そのダウン症の娘を見つめて母親の泰子さんは「人は生きているだけで大成功なのです」と話されます。この親子のことを綴った映画、「共に生きる 書家金澤翔子」が、先月上映されたばかりです。私は映画を見ていませんが、ある雑誌に泰子さんの言葉が載っていました。「闇がなければ光はないと私は思うのです。闇が大きければ大きいほど、待ち受けている光も大きい。苦難のときに道は開けます」と。ダウン症の子どもと共に通ってきた暗闇の道のり、それは大きな光を放つためのものであったと言う告白です。
そして、ダウン症でありながら、5歳のときから母を師匠として始めた書道を通して、翔子さんがどれだけたくさんの人々を慰めてきたのか。その娘さんを通して泰子さんは、力とは強さではなく、やさしさであることに気づかされたと述べておられます。
この世、私たちが暮らすこの社会は、何らかの障害をもって生まれた人にとってはとても生きにくい社会です。しかし、健常者を中心におく価値観は、社会を腐敗させます。社会的地位や経済的豊かさや心身の健常を成功の土台に据えようとする価値観は、私たちを腐敗させます。そして、目を覚ましていなければ、教会も、つい、そのような成功主義に走りだしてしまいます。
だからイエスさまは、力を振り回して空しいものを追いかけるのではなく、私の中に留まっていなさいと、今日もわたしたちを招いてくださっています。
ヘンリ・ナウエンというカトリックの神父をご存じでしょうか。彼は、著書「心の奥の愛の声」の中でこのように述べています。「今までは、自分が欲しくてたまらない愛を求めて走りまわっていたが、そんな探し物はそろそろ終わりにするときである」。「走りまわるのはやめ、信じて受け止めることにかかる時である」と。
つまり、人が求めている平安、安心できる場所とは、自分が追求して獲得するものではなく、そこに導かれるものである、そしてそれはすでに自分自身の中にあるというのです。もっとわかり易く申しますと、この世が、この社会が、具体的にはこの私が、自己目的達成のために、あらゆる障害を排除して頑張るような生き方、歩み方を止めるべきだということです。
さて、先ほど読まれた福音書は、とても知られているたとえ話、「種を蒔く人」の話です。この農夫は、種の袋を背負って出かけて、気前よく種を蒔いています。彼が蒔く種は、良い土地にだけでなく、道端や、石だらけで土が少ない所や、茨が茂る所にも蒔かれました。この農夫は、有り余るほど種を持っていて、気前よく、惜しむことなく、広く遠くまで種を蒔いているようです。
しかし、普通、農家が春になって蒔く種は、それほどたくさんではありません。耕した畑に蒔く分だけの種を取っておくのです。そして、収穫が少なくならないように、慎重に、大切に種を蒔きます。気前よく道端や石だらけの所や茨が生えているような所にまで蒔いたりはしません。
私もルターハウスでの畑作業で野菜の種を蒔くときがありますが、買ってある種は限られるので、慎重に使います。
そう考えるとき、イエスさまの話の中の農夫は、種を無駄使いしているような気もします。
しかし、18節からこのたとえ話の説明が記されているように、種とは御言葉のことを指しています。そして、道端や石だらけで土の少ない所や茨が生えている所は、人の心を表わしています。そして、種を蒔く人とは、御言葉を蒔かれる神さまのことで、このたとえ話の主役です。
道端や石だらけで茨が茂るような人の心、それは、御言葉を聞いても悟らない人、蒔かれた種が敵に奪い取られてしまう人、御言葉を聞いて喜んでも苦難や迫害が起きるとすぐ躓いてしまう人、世の思い患いや富の誘惑に負けてしまう人のことであると言うのです。道端も石だらけの土地も茨が茂る所も、すべて私自身のことが述べられています。ですから、いつも良い土地でありたいと憧れてしまいます。信仰が強そうな人に出会うと羨ましくなります。しかし、いくら頑張って、黙想を深めても、豊かな実りをもたらす良い土地にはなれないのです。皆さんはいかがでしょうか。
実りのないこれらの土地は、いつになったらよい畑に変えられるのでしょうか。みんな良い土地に変わって、三十倍、六十倍、百倍の実りを結ぶべきである、そのようなことをこの喩え話は勧めているのでしょうか。もしそうならば、それはかなりハードルの高い要求になります。果たしてそのような課題を私たちは果たすことができるでしょうか。人間は努力して救いを獲得するしかないのでしょうか。律法を守れる立派な人や、選ばれていると自意識の高い人でなければ神の国には入れないのでしょうか。
私自身、今まで、良い時にならなければと受け止め、このような問いの中で悶々(もんもん)としてきました。しかし、気づいたのです。このたとえ話は「種を蒔く人」の物語であることに。この「種を蒔く人」こそ、このたとえ話の中の主役で、この方に焦点をあてて、物語を理解すべきなのです。
何よりもここで重要なのは、この種まきの気前良さです。蒔く種を惜しみません。道端や石だらけで土の少ない所や茨の茂みにまで届くように、腕を広く大きく回しながら蒔いてくださっているのです。芽が出ても出なくても、大きく成長してもしなくても、それでも、今年も、来る春度に、あきらめることなく、種まきは気前よく全世界に手を広く大きく伸ばしてくださっています。誰一人、届かなかったり切り捨てられたりすることがないように。誰一人、一人ぼっちになることがないように。誰一人、孤独のうちに死ぬことがないように、その腕を広げてくださっています。慈しみ深い種まきは、良し悪しの区別なしに、御腕の中にすべてを一緒に生きる者としてひっくるめてくださいました。ですから、どうしようもない、荒れ果てた心の畑をもっている私にまで御言葉の種が届いたのです。
種蒔きには夢があるのかもしれません。凸凹のものは凸凹のままで、頑固なものは頑固なままで、ギクシャクしている者もそのままで、一緒に生きる世界になる夢です。種蒔きを真ん中にしてみんなが一緒に生きる。障害がある者もない者も、大人も子どもも、女も男も、国籍や民族の違い関係なく共に生きる、そんな豊かな世界を夢見ながら、種まきは今日も惜しみなく種を蒔き続けておられるのです。私たちみんなは、えばったり、短気だったり、不器用だったり、いろいろの弱さをもち、何らかのハンディをもっていても、そのすぐ隣には、三十倍、六十倍、百倍の実りをもたらして、その収穫を分かち合ってくださるイエスさまの畑があって、私たちのすぐそばに一緒におられるのです。いいえ、私たちの中に一緒におられるのです。ですから、無駄な力を振り絞って出かける必要はないのです。私たちは、今まで歩んできたまま、これからもそのままで歩み続ければ、それでいいのです。特に何か大きなことをやりこなせるようなことをしなくても、「人は生きているだけで大成功している」のです。お互いの違いをもちよって、イエスさまを真ん中に一つになれば、そこが神の国なのです。