ありがとう

Home » ありがとう
20230730_011010671_iOS

ありがとう

マタイによる福音書13章31~33、44~52節

「ありがとうの神様」という本を書いた作家小林正観さんは、「そ・わ・かの法則」を生活の中で実践することを進めています。つまり、掃除・笑い・感謝を生活の中心にすることです。そして、それにプラスして、「ありがとう」を口に出して言うことで、その人の人生が変わると言います。そして、「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないことを実践する人は、一生涯幸せになるというのです。

順境のときも逆境のときも、「ありがとう」と口にすることで一生涯幸せになるというのですから、それならすぐ実践できそうと思うかもしれません。しかし頭でわかっても、現実ではなかなかそうはいきません。

だから、どんなときでも「ありがとう」と言えること、それによって人生が幸いの方向へ変わることは、奇跡が起きたのと同じことだと思います。

「ありがとう」という言葉の中には、人の人生を変えるほどのパワーが内在している。ですから使徒パウロも、「どんなことにも感謝しなさい」(1テサロニケ5章18節で)と勧め、その言葉を素直に実践する人は、どんどん神さまに近づき、幸せになると説いています。どんなことにも感謝できる人の中に奇跡物語は生まれます。

今日は奇跡について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。皆さんは一生涯のうちにどんな奇跡を経験して来られましたか。

「奇跡」というと、モーセが杖を差し出すと海が二つに分かれて、イスラエルの民が海の底を歩いて渡ったことのような、つまり非日常的な出来事を思い浮かべるかもしれません。

しかし、本当に「奇跡」というのは、私たちの日常を超えた、非日常的なところで起きることなのでしょうか。

聖書には奇跡物語が多く登場します。病が癒される物語、死んでお墓に納められたラザロが甦る話、五つのパンと二匹の魚で五千人の人が満腹になる物語もあります。これらの奇跡物語も、日常では起きそうもない話のように理解され、自分とは関係のないことのように思います。

しかし、これらの出来事のすべてはイエスさまとのかかわりの中で起きていることですから、イエスさまに出会っている私たちも、何らかの奇跡の中を生きているのです。その奇跡に、ただ気づいていないかもしれません。ほんとうは、私自身がここにいるのも、私は奇跡だと思います。私の努力では決して成しえなかったことです。目に見えない神さまの導きがあって皆さまと私は出会っている、これは確かに奇跡です。

さて、先ほど拝読しました福音書は、先週の聖書箇所に続く天の国のたとえ話です。つまり、天の国はからし種のようである。天の国はパン種のようである。天の国は畑に隠された宝のようである。天の国は高価な真珠のようである。天の国は海に降ろされた網のようであると。

からし種もパン種も、極めて小さなものです。だんだん老眼になってきた私には、からし種もパン種も目には映らないほど、小さなものです。そして表面的には、人を感動させるような大きな力も見当たりません。

しかし、からし種が土に蒔かれたときに、それは芽を出して成長し、鳥が来て巣を作るほど大きくなります。成長するとどの野菜よりも大きくなるというのです。どうやってその小さな種の中に、それだけ大きな木になるほどの力が宿っているのでしょうか。私たちにはわからないことです。

パン種もとても小さなものです。しかし、それが小麦粉と混ぜられるときに、家族を養うほどのおいしいパンができあがるのです。パン種が入ってなければ、パン作りは不可能です。

これらの小さなからし種やパン種が、天の国にたとえられているのです。つまりそれは、天の国は、人の目には価値あるもののようには映らない、人を感動させるようなものようには近づいて来ないということです。

それに、からし種やパン種、または真珠、畑の宝、海に降ろされる網、これらを通して浮かんでくるものがあります。それは、これらを扱う人たちのことです。パン種を用いてパンをこねて焼く家のお母さんの姿(またはお父さんでもいいです)、からし種を用いて畑を耕し、芽が出るのを待つ農夫の姿、真珠を扱う商人の姿、畑を掘り起こして宝を見つけて喜ぶ貧しい農民の姿、海に網を降ろして魚を捕る漁師の姿です。この人たちは、高等の教育を受けて、特別な地位についている人たちではありません。ごく普通に、私たちの中に一緒に暮らす人たちです。

つまりイエスさまは、天の国は、ごく平凡な人々の中に、平凡な生活の中に、平凡な仕事の中に臨むということをおっしゃっておられるのです。農夫や漁師や商人、そして人の畑を借りて耕す小作農民は、ひょっとしたら親やその上の世代から受け継がれた仕事なのかもしれません。何年働いても、一生涯をその仕事に尽くしても、昇進する夢を抱くことも、畑が買えるほどお金を儲けるような仕事でもない。ですから、人の関心を呼び寄せるようなものでもなければ、感動を与えるほど魅力あるものでもなく、むしろ、地味で目立たず、みすぼらしいもの。そのただ中に天の国は臨み、永遠を司るものはその中に宿るというのです。それが天の国の不思議であり、神秘なのです。

つまりそれは、水の上を歩けることや、空を飛べるような素晴らしいことで、神的な力を発揮するのではなく、自分の足で地上を歩くことが奇跡だということです。

健康な時、人は、両足を道具のようにしか思いません。しかし、病気になって、ベッドの上に横たわって、まったく不自由になった方が、こう語っておられました。人で行きたいところに行けることや食べたいものを自分で選び、自分の手で食べられることがどんなに幸せなことかやっとわかったと。

今日、私たちは音楽礼拝という形で神さまを礼拝しています。たくさん歌い、人の歌や演奏を聞きます。歌えること、聞けること、オルガンやピアノやギターが弾けること、それらは奇跡の中を生きていることの証です。今私たちがしていることは、何一つ当たり前ではありません。今、私たちは、奇跡の瞬間、瞬間に出会っています。私たちに宿っている永遠のいのち、神の国を生きている証をしているのです。恵みのときです。

今のこの恵みの時に感謝して「ありがとう」と言うときに、私たちは、たとえ、耳が遠くなって人の話や物事の音を上手に聞けなくなっても、足腰が痛くなって上手に歩けなくなっても、人のお世話になって生きるようになっても、「ありがとう」と言えるのではないでしょうか。自分がからし種やパン種のように小さく見えて、このままで本当に生きる意味があるのだろうかと思うとき、それでも「ありがとう」と言えるなら、私たちは奇跡の中を生きる幸いな者になります。

人の不幸は、あれこれができなくなってしまったことではなく、感謝の心を失って生きることです。たくさん持っていたものを失ったことが不幸なことではなく、有り余るほどもっていても感謝を知らないことが不幸なことです。

今のこの私、今私が置かれた状況、私の家族、教会の仲間、一緒に働く仲間たちとの出会いに感謝し、毎日奇跡の中を生きる神の国の一人として歩み続けましょう。

 

ユーチューブはこちらから入ってください。