平和ってどんなこと?

Home » 平和ってどんなこと?
20230806_031802603_iOS

平和ってどんなこと?

(マタイによる福音書14章13~21節)

皆さんは自分の信仰の旅路の風景を描き出すとしたら、どんな風景を描き出しますか。その風景の中で、皆さんは一人ですか。それとも誰かと一緒ですか。その足取りは軽やかですか。それとも何かを背負って重いですか。心は平和で、笑顔ですか。それとも、悩んでいますか。

神さまは私たちが一人ぼっちにならないように、隣人を与えてくださいました。創世記2章の物語には、人が一人でいることは良くない、だから神さまがもう一人の人を傍に置かれたことが記されています。私たちが孤独のうちに暗闇をさ迷わないために、神さまはもう一人の人を造られたのでした。聖書では結婚と言う形で向かい合う関係が描かれています。たしかに、結婚して一生涯連れ添う連れ合いは、すばらしいパートナーでかけがえのない隣人です。そして歳を取って、創造物語を読み直してみると、違う角度からも読めます。社会で一緒に働くパートナー、近所で仲良く暮らしている人、遠くの国に離れていても心の支えになっている友人、これらの人々も人生の大切なパートナーです。

人は、こうした隣人との関係の中に置かれているときに、人生への責任を果たすことができる、そのことをこの創造物語は述べているのだと思います。

キリスト者としての責任を果たすためには、隣人の存在は不可欠です。なぜかと言うと、自分を優先して生きることが自由に生きることだと思い込みがちな私が、独りよがりで生きることを隣人はゆるさないからです。隣人は、私がしたいことと、本当にすべきこととの違いの識別を助けてくれます。自分を中心にして身勝手に生きている私を、ほんとうの自由な姿へと解放してくれるのは、隣人で、最高のパートナーなのです。

一人ではなく一緒に生きる、共に生きるということは、互いの課題を担い合い、喜びを分かち合う関係を育むということです。それは、強制される関係ではなく、まことの自由に基づく、神の霊性の中の関係性です。

使徒パウロは、このように述べています。

「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(1コリント9:19)。

この言葉を深く考えたマルティン・ルターは、著書「キリスト者の自由」の中でこう述べています。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であってだれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」と。

パウロやルターの心の風景を覗けば、神の霊性からくる自由な世界が広がっていることがわかります。隣人との関係性の中から自分の信仰の在り方を描き出しているのです。そしてこうしたパウロやルターの姿は、イエス・キリストから受け継いだ信仰の賜物から来ています。

さて、今日は、広島に原爆が落とされて78年目になる日です。この日を私たちは平和の主日として守り、聖霊降臨後第10主日の日課をもって、福音を分かち合います。テーマは、「平和ってどんなこと?」です。

「平和って どんなこと?」という絵本を、先日、北尾先生からいただきました。平和の主日を今年はどのように守ろうかと思っていたところに、タイムリーなプレゼントをいただき、とても嬉しいでした。そして早速、幼稚園の在園児保護者聖書会のお母さんと子どもたちと一緒に読んで分かち合いました。今日は説教の終わりにこの絵本を読みたいと思います。

この絵本は、 浜田桂子作となっていますが、彼女一人の作品というより、日本、中国、韓国の国の絵本作家たちの共同作業で作られたものです。戦争の傷を生々しく抱えている国の人々が一緒に平和を描き出しました。とてもシンプルで、幼子から大人までだれもが読むことのできる絵本ですが、深いメッセージを伝えています。そして何より、三つの国の人々が一緒に平和のための作業をしたということ。この絵本は、三つの国の国民の数だけの無数の人々の思いを代弁しているのです。

先ほど拝読しました福音書。イエスさまが休むために退かれた寂しい所(人里離れたところ)にたくさんの人々が集まりました。そのうちに日は暮れ、お腹も減ってきました。弟子たちは、「ここは寂しい所で、もう時間も経ちました。群衆を解散し、村へ行ってめいめい食べ物を買うようにさせてください」とイエスさまに提案します。もっともな提案で、理にかなっているように私も思います。なにしろ集まっている人は、男だけでも五千人いたというのです。しかしイエスさまは、「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と命じられます。しかし、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。弟子たちは、現実をそのまま訴えました。するとイエスさまは、「それをここに持って来なさい」と言って、それを神さまの前に差し出して「天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った」と記しています。

女性と子どもを除いて五千人という男が食べて満腹し、残りを集めると十二の籠いっぱいになりました。「パン五つと魚二匹」という僅かなものから奇跡が起きました。

ここで弟子たちがしたことは、自分たちの中にあったものをイエスさまに差し出したことと、イエスさまが裂いてくださったパンを群衆に配ったことだけです。みんなのためにパンを買いに走ったのでもなく、人々から食べ物を集めるために座っている何千人の間を行き来したのでもありません。

日が暮れて、食事のことで思い煩っていたとき、彼らは自分たちが持っているものを差し出す思いもなければ、こんな僅かなものでは何にもできないと思い込んでいました。それもそう、そこに集まった人たちは、弟子たちの親戚でもなければ友達でもなく、それまで出会ったことのない、全く知らない人たちです。

この弟子たちの姿は私たちの姿です。イエスさまと一緒にいてイエスさまに従っているとは言っても、一プラス一は二と答えを出す世界を生きています。それが、この世の在り方です。そしてこの世は、今自分が持っているものは自分だけのものだと教えます。しかし聖書は、今私にあるものは私一人のものではなく、私が管理するために与えられたものと教えます。私が努力して得たものであってもそうです。それが聖書の教えで、この世の教えとは天と地の差があります。

自分のものにこだわる限り、人は、まことの平安を生きることはできません。物だけではありません。人のことも自分のものだと思うとき、トラブルが次から次へと起こります。夫婦であっても、親子であっても、どんなに親しい関係であっても、互いを束縛する権利を私たちはもっていません。

自分のものにこだわるとき、人は、隣人のものにも貪欲を抱くようになります。人より強くなるために武器を所有し、国も、海も、空も、私のものと主張し始めます。役立たない隣人をどんどん切り離し、自分と理念が合わず、思うとおりにならない相手を見捨てます。これがこの世の教えです。この世の教えに従って生きるそこは、とても孤独で寂しい所です。今日、イエスさまが休むために退かれた所です。多くの人が周りにいますが、共に生きようとする隣人はいません。物の奴隷、お金の奴隷、武器の奴隷になって、一人ぼっちに生きることを当然な生き方として生きる所です。

その寂しい場所で寂しく生きる人にイエスさまは告げられます。「それをここに持って来なさい」。「あなたが座り込んでいる寂しい場所から立ち上がりなさい」、「隣人を拒絶する一人ぼっちの孤独な生き方から目覚めなさい」、「あなたは決して一人ではない、私があなたと一緒にいる」と。

弟子たちは、自分たちの僅かなものを差し出したことで、奇跡を経験しました。男だけで五千人が満腹に食べ、その残りが十二籠になったのです。寂しい所で神の栄光が現れました。めいめいに生きるという教えの下でお腹を空かせていた人々の心と魂が満たされました。平和な国、神さまが支配しておられる国がここにあります。まことの平和はこのようなことではないでしょうか。

イエスさまが隣人となって一緒にいてくださるということは、世界のすべての人々が私の隣人になり、友達になってゆくということです。私の僅かなものが用いられるときに、私の心に平和が確立され、世界に平和をもたらす原動力になります。恐れることはありません。私を差し出しましょう。私のものと思うそれを神の家族のために分かち合いましょう。私の僅かなそれが、神の家族には満腹になって明日への希望を生み出す尊いささげものとなるのです。

絵本の中身だけを読みます。

ユーチューブから絵本が聞けます(下をクリックしてください)
https://youtu.be/-UgZcL9cVw4