もう一度心から
もう一度心から
マタイ18:21~35、創世記50:15~21
9月はいろいろなことを考えさせられる月です。
百年前の9月1日には、関東大震災が発生して、大勢の人が犠牲になりました。死者・行方不明者の数は10万5千人の人と言われます。震災の後すぐ火災が起き、「朝鮮人が火をつけた」とか「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」いうデマによって多くの在日朝鮮人や共産主義者が殺され、その数は6千6百名余りと言われ、いまだもって正確な数は確定していません。
そして2001年9月11日には、4機のアメリカ国内線民間航空機が、ほぼ同時にハイジャックされ、米国の経済、軍事を象徴する建物に相次いで突入する自爆テロが行われました。それによってアメリカは、報復行為としてイラクとアフガニスタンを次々と侵略し、それから世界の情勢は大きく変わりました。
今日、ペトロはイエスさまに問いかけます。「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきですか。七回までですか」と。しかしイエスさまは、「あなたに言っておく。七回のどころか七の七十倍まで赦しなさい」、つまり「限りなく赦しなさい」と告げられました。
罪の連鎖を止めるためには、赦すこと以外はないということを、イエスさまはよくご存じでした。エデンの園で、神さまとの関係回復ができないまま地上に送り出された人間が、神さまに近く生きるためには、相手の罪深さを憐れみ、赦し合うこと以外に道はないのです。
そのひな形として、本日の旧約聖書の日課に選ばれている、ヨセフの物語があります。
ヨセフは、小さい頃、お父さんの愛を独り占めしていました。最愛の妻ラケルの息子だったからです。ラケルは、父の家のハランからカナンに移動する道のりにて、二番目の子ベンヤミンを産んですぐ亡くなりました。だから、ヤコブはヨセフのことを亡き妻ラケルの分身のように偏愛していました。
ヨセフの上には異母兄弟が十人ほどいましたが、兄たちは父の愛を独り占めしているヨセフが憎しくて仕方ありません。それにヨセフには夢を見て解釈するという素晴らしい賜物が神さまから与えられていました。兄たちの憎しみや嫉妬の感情は、結局、ヨセフをエジプトへ売り飛ばすという結果を招いてしまいます。
ヨセフはエジプトでしばらくの間奴隷として働きますが、彼は夢を解釈する賜物を持っていましたので、ある一人の官僚の夢を解釈してあげたことが縁で、エジプトの王ファラオの夢を解釈することになります。それによってヨセフはエジプトの総理大臣となり、奴隷から権力のある地位に一気に昇進します。そのような紆余曲折があって、兄たちと再会をします。普通なら、兄たちが自分にやったことを根に持って追及してもおかしくないのですが、ヨセフは兄たちにこう言うのでした。
「もう悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです」(創45:4)」と。
それから長い年月が経ち、父ヤコブが亡くなり、すると、兄たちは再びヨセフを恐れます。「自分たちの盾であった父が亡くなったから、きっと、ヨセフが自分たちをひどい目に遭わせるに違いない」と思ったのです。その話を聞いたヨセフは悲しくなり、泣きます。泣きながら同じことを言うのでした。「心配することはありません。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」と。
神さまから与えられた賜物を信じて、その賜物によって生きる人だけが発することのできる言葉です。
私もヨセフのように、一度だけでもいいからこのような赦しの言葉を口にしてみたいと思います。しかし、私の中の理性は常に自分の正しさを主張し、口から出てくるのは相手の過ちを指摘する言葉ばかりです。さらには、やられたことに対してやり返したいという報復感情に支配されたりします。その都度、自分には甘く人には厳しい愚かな自分の姿を見てしまいます。
そのような私の姿を、今日のイエスさまのたとえ話に登場する人物がよく現わしてくれています。
彼は王に対して一万タラントンの借金を抱えている人でした。当時、一万タラントンは国家予算並みの金額だったようです。それだけ莫大な借金を抱えている家来は、王の前に連れて行かれました。王は、彼がどう頑張ってもその借金を返済することができないことを知っています。それでももう一度王は家来に命じます。家族をはじめ、持っているすべてを売って返済するように!と。しかし家来は、ひれ伏して懇願します。「どうか待ってください、きっ全部お返しします」と。憐み深い王は、彼のことを憐れに思い、彼の借金のすべてを帳消しにしてやりました。何と気前のいい王様なのだろうと思います。
しかし、それだけの大きな恵みに与ったこの家来は、王の前を去ると、自分に百デナリオンの借金のある仲間に会い、彼を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と責めました。百デナリオンは百万円ほどの金額です。仲間は、「どうか待ってくれ、返済するから」とひれ伏して頼みます。しかし家来はその仲間の願いを受け入れず、牢に入れてしまいました。
その家来の振る舞いを、周りの人々も見ています。一万タラントンという巨大な借金を帳消しにしてもらったのに、百デナリオンの借金を返せと仲間の首を絞める、とんでもない人。自分には甘く人には厳しい人、私の姿そのものです。周りの人たちは彼のその姿を見て我慢ができなかったのでしょう。その家来のことを王に告げます。すると王は再び家来を呼び出し、「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と怒って、彼を牢に入れました。
家来が帳消しにしてもらった一万タラントンの借金は、彼の罪深さを表しています。国の一年間の予算ほどの重い借金を帳消しにしてもらったことを、家来自身はどう思ったのでしょうか。当然なこととして受け止めたのでしょうか。それだけ赦してもらったから、自分がどんなことをしても赦されると思ったのでしょうか。
王様は、この家来を、借金を全部返すまで牢役人に引き渡したと述べて、このたとえ話は終わっています。この家来は、牢の中で、どうやって借金を返すことができるのでしょうか。
私はこの家来が救われる道を探したいのです。そうしなければ私自身も救われる道を失ってしまいそうだからです。
イエスさまは、ペトロから、「きょうだいが私に対して罪を侵したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と聞かれたときに、このたとえ話をおっしゃられたのでした。イエスさまは、「七回のどころか、七の七十倍まで赦しなさい」と述べてくださいました。
このイエスさまのお言葉に救いがあるのではないかと思います。イエスさまのこの言葉にすがりついて、「七の七十倍まで赦しなさい」と告げられるイエスさまの十字架に近づくこと、私にはそれならできます。家来のように牢の中に閉じ込められてしまって、人を赦せない思いに囚われて心は不自由な自分でも、イエスさまの赦しの言葉にすがることはできます。
イエスさまは、ご自分を十字架につけて、ご自分のことを侮辱し、ご自分の衣をはぎ取ってくじを引いている人々のことを見て、祈ってくださいました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と。
自分が何をしているのか全く分からない人間、自分には甘く、平気で仲間に厳しくし、仲間の首を絞めてしまうような人、仲間の中のおがくずには気づいても自分の中の丸太には気づかない人間であっても、このイエスさまの祈りの中で救われるのではないでしょうか。この「父よ、彼らをおゆるしください」というイエスさまの赦しの祈りこそ、真実の平和と安らぎを求める私たちの歩みの根拠、土台なのです。
私たちは、ここでもう一度、いや一度だけでないでしょう、これから先、何度も何度も、イエスさまのこの赦しの言葉に立ち帰って、歩み続けたいと思います。