愛と喜びが実る心

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愛と喜びが実る心

(マタイによる福音書21章33~46節、フィリピ3:4b~14節)

毎年11月にはオリーブの会の修養会が企画されています。しかし今年は私が遠出をする予定が入っていて、修養会に参加するのが難しくなりました。修養会では、その年の年題聖句を分かち合っていましたが、今年はできないと思ってとても残念に思っていました。しかし、本日の第二朗読のフィリピの信徒への手紙の中に、私たちの年題聖句が入っていて、私は幾分ホッとしました。今日はそれを通して皆さんと福音を分かち合いたいと思います。

フィリピの信徒への手紙3章13~14節には、「なすべきことはただ一つ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と記されています。これはパウロがフィリピの教会に宛てた手紙ですが、その中の一節、「なすべきことはただ一つ、前のものに全身を向ける」が、今年私たちが選んだ年題聖句です。

この手紙を書いていたときのパウロは獄中に監禁されていました。パウロとフィリピの教会の皆との間には厚い信頼がありました。フィリピの教会は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を中心にして集まる教会で、その集まりの中から喜びの実りが生み出されました。そして、フィリピの教会はその実りをちゃんと分かち合うことができる教会だったのです。

フィリピの教会のことを、喜びの教会とも呼ぶほどです。フィリピの信徒への手紙を読んでみると、喜びという言葉がたくさん出てきます。

フィリピは、ギリシャの地方都市で、リディアという女性が洗礼を受けた場所として知られています。そこに教会が誕生したのです。パウロは普通、金銭的な援助の申し出があってもそれを断り、天幕作りからの収入を宣教資金に充てていました。しかし、フィリピの教会からの援助だけは受け取っていました。それは、フィリピの教会は比較的裕福であったということもありますが、パウロとの間に厚い信頼関係があったからです。その信頼とは、人間的な関係だけでなく、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、自分たちの生の中心においていた、その中から生まれたものでした。つまり、イエス・キリストにおいて自分たちは一つであるという確信から来る信頼関係でした。

先ほど、11月に遠出をするお話をしましたが、世界ルーテル世界連盟が主催するリトリート(研修)がスイスのジュネーブとドイツのヴィッテンベルグで開催され、NRK(日本ルーテル教団)にも声がかかり、私が行くことになりました。せっかくの機会に、自分が牧会者として大切にしていることを述べる機会があればちゃんと述べようと思って準備をしています。その中の一つがエキュメニカルな教会形成です。

宗教改革以来、教会は分裂し、互いの違いをダメなものとしてにらみ合い、教会と教会の間に高い壁を築いて来ました。その壁があまりにも高いために、一般の信徒は、相手の教会にどのような人がいて、どんな礼拝をし、どんな福音を分かち合っているのか、何もわからないくらいです。互いに、関心がないのです。それは、イエス・キリストの赦しの福音を分かち合うキリスト者として悲しい現実です。ですから、対話を通して壁を少しずつ低くし、自分たちにはないものを持っている相手と知り合って、互いたが学ぶのです。相手の賜物を尊重しつつ、一緒に歩める道を探すのです。

今まさに世界のキリスト教は変わろうとしています。カトリック教会の教皇フランシスコは、これからの宣教はエキュメニカルな協力なしには考えられないとおっしゃっています。今まで、互いがにらみ合い、敵対し合ってきたこと、傷つけ遭ってきたことを悔い改め、新しい始まりを生きるときが到来したのです。

分裂してきたときがあまりにも長いので、お互いが築いてきた神学や教理、礼拝のスタイルなど、異なることが多くあることでしょう。しかし、その違いを批判するのではなく、認め合って、違いを共有するのです。それが可能なのは、私たちは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事、つまり赦しの福音においては違いがなく、共通しているからです。私たちは信仰共同体なのです。イエス・キリストの仲間、家族なのです。家族は同じ釜の飯を食べる人のことです。イエス・キリストの恵みの食卓からいただいているのです。ですから、みんなは、教派が異なっても、恵みの仲間であり、喜びを分かち合う家族です。

きっとフィリピの教会はその実践をしていたのだと思います。自分たちと異なる人をどんどん受け入れて、一緒に主の食卓に与る。つまり、人間的な集まりではなく、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を中心にして、互いの弱さや違いを背負い合って交わる群れだったのでしょう。ですからパウロも、他からは決して受けない援助をフィリピの教会からは受け取っていたのではないでしょうか。

本日の福音書は、ぶどう園を任されていた農夫たちが、収穫のとき、主人から遣わされた僕たちを次々に袋だたきにし、殺し、ついには最後に遣わされた主人の息子までも、ぶどう園の外に放り出して殺してしまうというお話です。

この農夫たちは、祭司長やファリサイ派の長老たちを指しています。また、遣わされた僕たちは預言者、また主人の息子は、十字架の死を成し遂げるキリストを指しています。そしてぶどう園は神の国、ぶどう園の収穫は神の国の恵みを表しているのでしょう。

ぶどう園を農夫たちに貸す前に、主人は、念に念を入れてぶどう園を整えています。垣を巡らしてその中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを建てるなど、完璧な準備をしてから農夫たちにぶどう園を貸しました。しかし、収穫のときが近づいて、収穫を受け取るために僕たちを送りますが、収穫を納めたくなかったのか、納めるものがなかったのか、農夫たちは次々と僕たちに暴力をふるい、主人の息子は跡取りという理由でぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。

このたとえ話をおっしゃっておられるのはイエスさまですが、たとえ話を聞いてハッとさせられることは、農夫たちはぶどう園をもらったのではなく、貸してもらっているということです。33節で、「これを農夫たちに貸して旅に出た」とはっきりとおっしゃっておられます。ぶどう園はあくまでも主人のものであって、農夫たちの物ではない、ということです。

ぶどう園は神の国を現わしていると申しましたが、この世でわかり易い形で神の国を現わすのが教会です。建物の教会というより、集まる群れの教会のことです。私たち一人ひとりは神の国を現わす一人ひとりなのです。貸していただいた神の国の中に私たちは招かれ、神の国を営み、そこから出る実りを納めるのです。この教会の群れの中から、神の国の実りを生み出していくのです。その実りとは、自由と平和と喜びです。

私はここに来て今四年目になりますが、とても嬉しいのは、私という多くの違いを持った者が受け入れられているということです。国籍も違いますし、女性ということで長い間牧師として認められていませんでした。しかし、そんな自分が受け入れられている、受け入れていただいている、皆さんと一緒にいて嬉しいという喜びが私の中にあります。

皆さんはいかがでしょうか。

ですから、私は牢屋の中でフィリピの教会宛に手紙を書いているパウロの心境がよくわかるような気がします。囚われているのに、心は自由で、喜びがあふれています。その中でパウロは述べています。「なすべきことはただ一つ、前のものに全身を向けよう」と。

ただ一つのなすべきこと」それは、囚われている人々とどんどん喜びを分かち合うこと。それだけが、互いの間の高い壁を崩す力になります。その力がこの群れの中にはあるのです。それだけ神さまは私たちに期待しておられるということです。

まが造って貸してくださったこのぶどう園、主イエス・キリストの十字架と復活の喜びに満ち溢れているこの教会で、皆さんも、私も、真の喜びに預かり、その実りを神さまに納めながら歩みましょう。

希望の神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みにあふれさせてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。