真理と自由は友達

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真理と自由は友達

(ヨハネによる福音書8章31~36節)

2023年10月29日(日)説教

今日私たちは、新しい出会いに招かれています。ルーテル教会で今日は、「宗教改革主日」という大きなお祝いの日ですが、その場に、教派を超えた方々が、キリストにある一致の思いをもって集まりました。さらには、歌や楽器を通していっしょに奉仕ができる、心を一つにして神さまを賛美し、祈り、福音に与り、祝福をいただくという、素晴らしいときが与えられました。この出会いが、新しい始まりを告げています。

先ほど拝読しました聖書の中でイエスさまは、ご自分を信じた人々にこのよう告げられました。
私の言葉に留まるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(31-32)。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。
真理」とは何でしょうか。
自由」とは何でしょうか。

今日の説教は、「真理と自由は友達」というタイトルです。
友達」とは平等な関係を表します。
ヨハネによる福音書の15章でイエスさまはこのようにおっしゃっておられます。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15:13-15)。

イエスさまは、ご自分を信じる人を「友」と呼びました。これは驚くべきことです。イエスさまを信じて弟子となった私たちは、イエスさまの友なのです。つまりイエスさまと対等な関係になります。
この対等な関係性がもたらす意味は、とても重要です。

つまり、イエスさまが上で私が下であるという上下関係であれば、私たちはイエスさまに欲しいものをお願いしたり、すねをかじったり、平気で甘えることでしょう。しかし、友達となると、イエスさまと対等ですから、意見を言い合い、イエスさまのご意見に自由に質問し、納得がいくまで、どことん語り合ってもいい関係です。

しかし私たちの中には、対等と言う関係性が苦手という方が多いのではないでしょうか。対等に語り合うよりは、言われたことを黙々と行う方が楽だと思う方もおられるかもしれません。しかしイエスさまは、主人と僕のような関係ではなく、友として向かい合いたいと告げられるのです。なぜなら、私たちの自由意思を通してご自分の仲間になってほしいからです。奴隷のように何も知らないで働くのではなく、イエスさまと思いを交わし、弱さと貧しさを分かち合い、補い合い、互いの中の賜物を見つけ出して一緒に交わってほしいからです。そういう交わりの中でこそキリストは現わされるからです。

今日の説教のタイトルは先ほど申しましたように、「真理と自由は友達」ですが、「真理」とは、不変なものを表します。どんなものによっても変わらないもの、私たちを友として向かい合ってくださるイエス・キリストのことです。
そして「自由」とは、「変わるもの」、「次から次へと変化して行くもの」と言えるのではないでしょうか。

今秋がどんどん深まっていますが、木の葉っぱの色が変化して、最後はすべて落ちます。すると木は裸になります。夏に茂っているときにはいつまでも緑で変わらなさそうに見えますが、季節の変化と共に木々の姿は変化します。
木々だけでなく、造られたものはすべて変化します。太陽も月も、傾き方や大きさが変化します。大地も海も変化します。生まれたものは歳を取って死を迎えます。死なないでいつまでも生きるものはいません。
変わることは悪いことではありません。それどころか、その変化に意味を与えてくださるのがキリストの福音です。福音は、自由そのものです。
愛するために、私たちは閉じていた扉を開いたり、憎しみ会っていたことを愛し合うように、変化していかなければならないのです。そのために、意見を変えなければならないときがあります。愛のために、社会の構造悪に対して闘い、差別と偏見をなくすための働きに、私たちは招かれているのです。

そして、愛の働きに遣わされているそこで私たちは出会います。私の働きの中に、変わらない愛をもって入ってきてくださり、一緒に闘ってくださる方がおられる。私を励まして勇気を与えてくださる方、隣人の姿をして私の前におられる尊い方に気づくのです。

イエスさまは、本来おられる場所から私たちがいるところまで降りて来られて、私たちの闇と弱さと涙を、病と悲しみを引き受けてくださり、私たちに寄り添ってくださいます。これが福音です。私はそれをキリストの自由と言いたいのです。愛するために、イエスさまは、私たちに合わせて、どこまでも私たちに寄り添ってくださるからです。

マルティン・ルターはその自由なキリストの姿に倣うキリスト者のことをこのように述べました。
「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であって、だれにも属さない。キリスト者はすべての者に奉仕する僕であって、だれにも属する」。
これは、使徒パウロが述べられた次の言葉からのものでした。パウロはフィリピの信徒たちに宛てた手紙の中でこのように述べています。
私は自分に置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、貧しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」(フィリピ4:3~4)。

真理と自由は友達」。
真理と自由は一つで、パートナーのように働き、私たちの中に宿っておられ、私たちの限界を可能性に変えてくれます。私たちの土の器の中に、永遠に愛することを変えない方、無限の方、真理でおられるイエス・キリストが一緒におられるのです。その方のゆえに、私たちは、互いに対して奉仕するキリスト者としての自由を生きることができるのです。そして、このキリストの自由の中でのみ、私たちは一致の道を歩くことができます。
これからも私たちが寄り添って共に生きるときに、真理と自由の友情は芽を出して花を咲かせ、実りをもたらすことでしょう。

希望の神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊によってあなたがたを望みにあふれさせてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。