歩き続ける
2023年12月10日(日)説教
マルコによる福音書1章1~8節
歩き続ける
今年はとても残念ながら一度も山に行くことができませんでした。私が山に行きたい理由の一つは、人が歩いた道を歩くことができるからです。私より先に歩いて道をつくってくれた人々の足跡をたどって、今自分がこんなに楽に歩くことができると思うと、感謝の思いでいっぱいになります。
数年前に八ヶ岳に行ったときのことです。山小屋に大きな荷物を降ろして天狗岳に登りました。ところがその道は草など生えていない、大きな石が転がっている道で、どこが道なのかわからないところを辿らなければなりません。しかし、石の上に、先に歩いた人の足跡がちゃんと残っているのです。薄っすらではありましたが、ちゃんと見ればわかるように、先に歩いた人の足跡が残っていました。その道を辿って頂上まで登ることができました。
そのとき、私は思いました。私の人生の道も、私が一人で歩いているのではなく、誰かが先を歩いてくれていたので、歩き続けることができ、今も歩いているのだと。暗闇の中で進むべき道がわからず座り込んでいたときや、自分の力に頼り自己満足の中で独りよがりの道を歩いていたとき、私の前にはいつも歩くべき方向を示し、道しるべとなってくれた無数の人がいました。
そして今、私の前におられる皆さん、幼稚園の子どもたちもみな、私がどこを歩けばいいのか、具体的な道を教えてくれる教師です。どんなに感謝なことかわかりません。
そして、さらには、私自身も誰かの先を歩いている者で足跡を残していると思うと、自分が人にどんな姿を見せ、何を残しているのだろうと自分を振り返ります。そのたびに、このような自分で本当にいいのだろうかと思います。こんな歳になってもあまり変わりません。
さて、今日、マルコ福音書はこう告げます。
「荒れ野で叫ぶ声がする『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ』」(3節)と。
荒れ野で叫ぶ声がする。この荒れ野とはどこを指しているのでしょうか。地理的には、植物が育たない乾いた地を指します。イスラエルの民は、約束の地に入る前に、40年間をその荒れ野で暮らしました。約束の地に入る前にどうしても通らなければならない大切な場所でした。そこでかれらは天から降ってくるマナを食べて、神さまの恵み豊かさの中に包まれて生きたのです。しかし、ときが経ち、ヨハネが荒れ野から声をあげたとき、イスラエルの人々の心にとって忘れ去られた場所でした。
その荒れ野へ、ヨハネは救い主が来られる道を備えるために遣わされています。彼は、これから来られる方、救い主の道を備え、道案内役を果たすために遣わされているのです。
そして、荒れ野とは、人の人生の景色でもあります。
人生には、山を超えれば谷があり、波風の強い日々もあります。もちろん、波風なく順風満帆に進むときもあるでしょう。しかし、人は、山を越え、谷間を進み、波風の多い日々の中でこそもっとも大切なことに気づくのです。隣人の存在の大切さに気づき、その中で神さまに出会うのです。そしてそのただ中で「主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ』」と叫ぶ声が聞こえるのではないでしょうか。
荒れ野で叫ぶヨハネの恰好は、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べていた」と記されています。彼は、普通の人が食べるようなものは食べず、着物もらくだの毛衣ですから、世間の目から見ると、かなり変わった生き方をしている人です。この人が救い主の道を備えるために遣わされている人だと聖書はそう教えています。
しかし、今の私たちの現実の中に、変人のような恰好をしたヨハネを私たちは受け入れますか。その声を私たちは聞こうとするのでしょうか。私たちの人生の中に、ヨハネのような人が入って来ようとするのをゆるしますか。救い主の来られる道を備えるようにと勧められても、きっと私は受け入れないことでしょう。危険な人だと思って避けようとすると思います。
私は以前訪ねたフランスのテゼ共同体の祈りの中でもそのような自分を見つけました。
テゼ共同体は、フランスのテゼという村の中にある男子修道会ですが、2019年の春に初めて訪れました。一週間滞在しながら、毎日、朝昼晩の祈りに参加していました。あるお昼の祈りのとき、短い歌が繰り返し歌われる中に、異なるメロディーで独唱が入ってきます。すると、歌は素晴らしい調和をなし、とても豊かになります。その時私は思ったのです。神さまが私の人生に入ってくる姿も、あの独唱のように、私とは違うメロディーで入って来られる。それは私の貧しさと調和して、とても豊かなものをもたらすはずなのに、私は自分とは違うという理由で、神さまの介入をずっと拒否してきたのではないかと。私は、できるだけ自分と同じ考え方をする人、似たような性格の人を捜し求めるような生き方しかしてこなかったと悟ったのでした。
今もその傾向は残っています。そしてそもそも、自分自身が荒れ野なのです。渇ききった貧しい心の大地なのです。
ですから、今日、荒れ野からの叫び声がするというのは、私の、そして皆さんの人生のただ中からの声であって、神さまは私たちの人生を、救い主が来られる道を備えるための器として用いておられるということなのです。もう一度、自分とは相反する格好をして、性格も、食べ物も、生き方も、まったく異なる人を、受け入れ、共に生きる道が備えられているのです。
そしてやがては、私たちが、この世の資本主義や合理主義の中に安住することに対して、変わったものとして立たなければならない。どんなに多くの人が、この世の価値観の中で疲れ果て、渇き果てていることでしょう。武器が平和を守ってくれると錯覚している政治家に自分の暮らしを委ね、お金さえあれば幸せが手に入るとの錯覚の中に身を置き、心はどんどん渇き果てているのです。何のために生きているのか、自分はいったい何者なのかわからず、命を絶つ人の数が、特に若い世代に多くなってきました。その社会に向かって、その人々のただ中で、私たちは叫ばなければなりません。「悔い改めよ、神の国は近づいた、主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ」と。この世の価値観に立ち向かって叫ぶ、変わった者となっていかなければならないと思うのです。
つまり、私たちのこの群れ、この教会は、現代社会において、洗礼者ヨハネの役割を期待されているのです。その期待に応えるためには、もう歳を取ってしまったというのは理由になりません。群れが小さいというのも理由になりません。私たち一人ひとりが、自分の救いのためにだけ集まることを止めればいいのです。自分の信仰を守るためにだけ集まるときに、教会は自己利益のためにだけ存在する宗教団体になってしまいます。カルト集団と変わらなくなるのです。
私たちがどのような歩みを続けようとしているのか。私の後から来る人が、私が残した足跡をたどるときにどんな気持ちになり、何を学べるのか。私は救い主を指し示すための道を歩いてきたのだろうか、一緒に振り返るときです。
ヨハネは最後にこのように述べています。
「私より力ある方が後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(7節)。
ここにヨハネの信仰が現れています。謙虚で美しい姿です。自分の後から来る人のことを高くたたえているのです。こうした謙虚な人が私の先を歩いてくださり、道をつくってくださったから、私たちはどんなときも歩き続けることができたのでした。私たちも、自分の後に続く人のことを尊びましょう。どんな人でも、その人のことを高くたたえながら、ヨハネのように、道を備える歩みを続けましょう。