教会ニュース 5月号

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実を結ぶ

ヨハネによる福音書15章1~8節

ぶどう 宗教イラスト|無料イラスト・フリー素材なら「イラストAC」ルターハウスには、種も蒔いていないのに、春になると自然に芽が出て育つものが多くあります。たとえば、七草の中に入るホトケノザやナズナ、ハコベラ、そして野蒜(ノビル)やヨモギやタンポポなど。ほとんど苦いものですが、体にはいいものがたくさん出てきます。しかし、これらを楽しめる時期はほんの短いときに限られています。そのときを逃さないようにと毎年願うのですが、思い通りにはなかなかいきません。私にとって、ルターハウスの春の畑は春の宝箱です。

それとはまた別の喜びがルターハウスの畑からもたらされます。自分が種を蒔いたところから芽が出て、そしてそれを育て、その実りを収穫する喜びは、言葉には言い表せません。ルターハウスでは月に一度聖餐礼拝をもち、その後みんなで食卓を囲みますが、そのときはなるべくルターハウスで収穫したものを出します。それもまた喜びのときです。しかし、収穫を得るまでは、土や雨や太陽や風の助けがなければ不可能なことで、どんなに人間が頑張ってもできないものです。

さて、イエスさまは、ご自分のことをぶどうの木、私たちのことをその枝とおっしゃっておられます。イエスさまは私たちに、「あなたと私は別々ではなく一体なのだ」と伝えようとされておられるのです。さらにイエスさまは、「私の父は農夫である」とおっしゃっておられます。農夫とは、畑を耕す人です。そして農夫は、畑に植えられているものが元気に育って、なるべく良い実りをもたらすために畑を管理します。その管理の中で大切な仕事は、剪定の作業です。剪定をするためには、その時期を選ばなければなりません。さらには、切り落とすものと残すものの識別がとても重要です。

このように、イエスさまは、時に適って実を結べるようにちゃんと管理してくれる農夫もついているから、安心してご自分につながるように勧めておられるのです。

もしかしたらイエスさまは、ご自分の傍らにいながらも心はそこにあらずという人を見ぬいておられるかもしれません。今日のぶどうの木と枝のたとえ話の中で、同じ言葉を何度も繰り返しながら話されるイエスさまの姿は、とても切実に感じるのです。「ここだよ、他ではなく私に、この私にこそつながっていなさい」と語っておられるイエスさまの必死なお姿を皆さんは感じませんか。

それほどまで切実に訴えるイエスさまのお勧め、それは、ぶどうの枝がその木につながっていなければ、自分の存在意味であるぶどうという実を結ぶことはできないからです。そうなのです。ぶどうの木の枝とされた私たちは、ぶどうの実を結ぶことなしに、自分自身の存在の意味を見出すことはできないのです。

韓国のことわざに、「大豆(だいず)の種を蒔いたところからは大豆の芽が出、小豆(あずき)の種を蒔いたところからは小豆の芽が出る」という言葉があります。日本の「蒔かぬ種は生えぬ」と言うことわざに似ているでしょうか。少しニュアンスは違いますが、人はその行い通りのものを収穫すると言うことを表していることわざです。どんなに小さな振る舞いも、ごまかしは効かないということです。

私は子どもを育ててそのことがよくわかりました。私が息子に蒔いた分だけ息子も私にかかわってくれる大人になったのです。それなのに私は、自分が蒔いてもいないことを期待し、期待が外れると悲しい気持ちになります。困った親です。

本日、「私に留まっていなさい」というイエスさまのお言葉を吟味しながら、自分は、種も蒔かずに収穫を期待したり、蒔いたものとは異なるものを欲しがったりしていることに気づかされました。

イエスさまが、「私につながっていなさい」とおっしゃっておられるときの「つながる」と訳されている言葉は、「中に留まる」とも訳せる言葉です。「つながる」と「中に留まる」は、ヨハネ共同体にとってとても重要な意味を持つ言葉です。聖書の中でこの言葉が118回使われていますが、その中の67回がヨハネの福音書やヨハネの手紙の中で使われているほどです。

そして、ヨハネ福音書1章39節には、最初にイエスに出会った弟子たちは、「イエスのもとに留まった」と記されています。かれらは、先ずはイエスのもとに留まりました。それは、イエスのもとに留まった者が、イエスの中に留まる者になっていくことへの始まりであることを示しています。先ずはイエスさまの近くに行くこと、そしてだんだんとイエスの中に入っていく。これがヨハネ福音書の大切なテーマの一つなのです。

イエスの中に留まる、つまりイエスにつながるということは、イエスの世界を経験するということです。イエスの世界はとてもカラフルな世界です。目の見えない人、一人では歩けない人、病気を患っている人、貧しくて食べるものがない人、ひとりぼっちの人…、この世の底辺に追いやられた人たちがみなそこにいます。弱さと悲しみと怒り、そんな限界を生きる人たちがイエスさまの世界の人々です。

イエスさまは私たちに、そこへつながって生きるように、その世界に留まるようにと招いておられるのです。

ある人がインドを旅したときのことを述べていました。初めてインドを訪れたとき、彼がインドに対して抱いていたものがすべて崩れてしまいました。インドには霊的に悟った人が大勢いると思っていたのですが、ホームレスや偽物の修行僧たちが溢れ、聖なるガンジス川には、むしろ死体が流れるときもあり、道は人や動物の排泄物で悪臭を放ち、人間存在の不条理と混沌に満ちた世界であったと。どこを見ても、まったく自分が想像していた世界ではなかった。そのとき彼は、こんなはずじゃなかったと思ってがっかりしました。しかしそのインドを、彼はそれから20回以上訪ねることになったのです。

教会もそうです。初めて訪れた人がしばらく通い続けてみて、「こんなはずじゃなかった」と、自分が想像していた教会の姿とは異なることにがっかりするかもしれません。結婚もそうです。結ばれてみると、思っていた人ではなかった、こんな生活を期待したのではないと言ってさっさと別れていきます。自分の人生はどうでしょうか。「こんなはずじゃなかった」という思いはありませんか。その続きでいれば、死んで天国に行っても「まさか天国がこんなところだとは知らなかった」と言って、天国に入ったことを後悔するようになるのかもしれません。

平和の使徒】 2015年05月03日 復活節第5主日(ヨハネ福音書 15・1-8) - ミサ説教 典礼秘跡 祈り・福音の教え・信仰教育 カトリック広島司教区平和の使徒推進本部しかし、自分の期待が外れるから、旅は面白くなるのです。私たちはあまりにも概念の世界を当たり前に生きています。人に対しても、自分に対しても、さらにはイエスさまに対しても、自分の概念に合わせて存在してほしいと願ってしまうのです。それは、イエスさまには近づいたけれども、イエスさまの中には入って行きたくなくて、躊躇している、古いままの自分に固執する人の典型的な姿です。

不思議なことに、美しいものを見つけようとする人には美しいものが見えるようになり、悲しいニュースを追う人には悲しいことばかりが起きるようになります。物事は、あの人にもこの人にも平等に与えられるのではなく、今、私がどんな種を蒔いているのか、それによって収穫する実りも変わってきます。この時点で、今自分が、普段、知らずに蒔いている種はどんなものかを振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。つまりそれは、何につながろうとしているのか、それが問われているということです。

ですから、信仰生活の中で大切なのは、新しさに心を開くことです。もちろん、新しいところには、難問もあり、疑問が湧き、葛藤もあります。しかしそこには、ときめきがあり、感動が生まれ、喜びがあふれます。そして、次の新しい始まりへとつながって行くのです。自分の想像をはるかに超えた世界が広がるのです。そこは私たちが想像していた世界よりもっと素晴らしい世界です。その世界に入ってこそ、私たちは、ぶどうの枝としての役割をちゃんと果たすことができるのではないでしょうか。つまり、ぶどうの実を結ぶ喜びに生きるのです。そしてそのとき、農夫でおられる神さまに栄光を帰すことができ、イエスさまと自分が一つになっている、一体感が生まれます。

みなさまの信仰の歩みがイエス・キリストの木にこそつながって、そこから多くの実りをもたらす歩みでありますようにお祈りいたします。そして、私たちの教会が、カラフルで豊かなイエスさまの世界を表す群れでありますように。

 

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グループの現状                         5月 Dグループ

イースターの光”

『光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった』(ヨハネ1-5)

 永見亜矢子

2024年 3月30日復活日(聖土曜日)、近年コロナ禍の影響で実現されなかったが、念願叶い、パリの”エトワール教会”にて、私のコンサートが開催された。この楽器は、19世紀末に製作された大変美しい音色を持つカヴァイエ=コル製作のパイプオルガンである。この製作者のオルガンの特徴は交響的な豊潤な響きであり、この楽器を演奏できることは、オルガニストにとって大変光栄なことである。今回のコンサートは、日仏交流を考え、日仏20世紀の作曲家を取り上げた。この珍しいプログラムを、教会の方々は喜んでいた。

話は遡るが、20代の頃、私はこのままオルガニストの道を進むべきか否か悩み、深い闇の中にあった。競争の激しかった大学時代、私は闇の中に放り投げられ、大分長い間、苦しんでいた。その頃、今も世界中のオルガニスト達が尊敬してやまない故ジャン・ボワイエ氏に出逢い、彼は私をフランスへ導いて下さった。彼への尊敬と感謝は、今も尚続いている。今回のコンサートの招聘は、彼の音楽や精神を手本とする弟子の一人、親日家で私の親友でもあるリオネル・アヴォ氏からであった。私などを招聘して下さるとは!『人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない』(ヨハネによる福音書 15:13)この聖句が頭を斬った。そして、恐縮しつつもこの申し出を拝受した。

『イースターの光』と名付けられた私のプログラム冒頭の曲には、楽譜の隅に以下の詩が添えられている。”その時、私は神に向かって叫んだ。どのようにして運命は我々を闇へと導くのか•••と、すると、神は応えた。盲目的な本能に従え•••と。”このオマール•カーヤムの詩よりJ.アランが触発され作曲したという「2つのファンタジー」 を演奏した。続いて同作曲家の「光の創造主の主題による変奏曲」、トゥルヌミール作曲「復活祭のための聖土曜日」、カトリック聖歌の作曲家としても名高い新垣壬敏作曲「オルガンのための越天楽による変容」。かつて、当教会でもオルガネッタによるコンサートを行って下さった親友坂本日菜作曲の聖公会聖歌に基づく「暗闇を行くときにも」。生前に御前演奏をさせていただいた、今年没後20周年を迎えたJ-L.フローレンツ作曲「賛歌〜エチオピア正教会の朝の聖務日課の祈り」 より3曲、「光の主」という名の曲でコンサートを締め括った。闇から光へ導かれることを祈りつつ生きてきた日々、それが自然とプログラムに顕になり、偶然にも復活日に演奏する運びとなった。コンサートの際は、留学当時の恩師達や友人達から励ましのメッセージが届き、アヴォ氏を始めオルガニストや教会の方々、そして親友達にも大変温かく迎えられた。終演後には、沢山の拍手と全員総立ちのスタンディングオベーションがあり、自分の反省を超え、聴衆が喜んだ。その時私は、闇の中より光へと神様に導かれているように『光の方へ出ておいで』とキリストに優しく呼びかけてもらっているかのように感じた。応援、そしてサポートして下さった全ての方々に感謝しかない。日常の中で、時折り思いもよらぬ理不尽な出来事に心押し潰されそうになることもある。しかし、『光を求めて演奏することが、会衆や聴衆の喜びに繋がり、それが神への賛美となる』 これらの尊い経験を通し、この事は、より一層私の心に刻印された。 今回は特に祝福されたイースター期間となった。 復活を通し、世に打ち勝つことを示された主イエス•キリスト。 『光あれ!』 闇から光へと私達を救い導くその御言葉を信じ、日々祈りつつ、今後も歩み続けたいと想っている。神に感謝。

 

 

 

 

 

 

 

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