真の安息

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2024年6月2日(日)説教

マルコによる福音書2章23~3章6節

真の安息

安息日に、弟子たちが軽率に麦の穂を摘んだことが発端で、イエスさまとファリサイ派の人々の間に、安息日の規定に関する議論が始まりました。安息日とは、ヘブライ語で「シャバット」と言って、「休む」という意味です。休息と喜びの日として守るように定められた日で、ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日です。しかし、イエスさまの時代には、安息日の精神が失われ、規則に従って守らなければならない日になっていました。そして、安息日には「~してはならない」という細かい戒律が付け加えられ、麦の穂を摘むことも禁じられていたのです。人が作った戒律に人を合わせようとしていた、そのことをイエスさまは批判しておられるのです。

さて、イエスさまのご一行が安息日に会堂の中に入ると、そこには片手の萎えた人がいました。ファリサイ派の人々は、イエスがその人を癒したら安息日を犯したと訴えようと狙っていたので、会堂には緊張感が漂っていますす。片手の萎えた人の名前はありません。この安息日に、この人はイエスの運命を左右すると言ってもいいくらいの存在になりました。ファリサイ派の人々は、イエスから「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」「人の子は安息日の主でもある」と挑戦的な言葉を投げかけられ、何とかしてイエスを訴えようとしています。それで、彼らは会堂の隅っこに座っていた片手の萎えた人を、イエスを訴える口実にしようとしたのでした。

 片手の萎えた人は、きっとそれまで、手が萎えたのが罪を犯した結果であるという偏見を浴びせられながら生きてきたのでしょう。だから、会堂の中にいても隅っこに座っています。今、彼は、どんな思いでそこに座っているのでしょうか。ファリサイ派の人々は、自分のことを、イエスを訴える口実にしようとしている。イエスの運命が自分にかかっているかもしれない。ですから、自分が、今、何と場違いな所にいるのだろうと、いたたまれない気持ちなのかもしれません。その彼をイエスさまが呼び出し、「真ん中に立ちなさい」と命じられたのでした。彼は、イエスさまによってみんなの真ん中へ招かれました。もう、こうなれば何もかも神さまに委ねるしかないと思った、そのとき、イエスさまが人々に問いかけ始めます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と。

イエスさまは、ファリサイ派の人々を含め、そこにいるみんなに問いかけたのでした。しかし、誰もイエスの問いかけに答えず、黙っていました。イエスは怒ったと聖書は記しています。どんなにがっかりされたことでしょう。みんな、「安息日は善を行う日であり、人を救う日」であることを知っていながら、手の萎えた人を弁護し、イエスの発言に賛成する側に立つまでの勇気がありません。非難されることを恐れて傍観者でいることに甘んじよう、だから黙っていようと。そういう経験、皆さんにはありませんか。

イエスは片手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と命じられました。できればこの場から身を隠したい気持ちでいっぱいな彼は、人々の「真ん中」に立たなければなりません。それまで、人々から示された関心は、罪の結果として萎えるようになったと思われた手、だから「救われない人」というレッテルが貼られた冷たい視線です。その彼が、イエスによって、人々の真ん中、誰よりも中心に立つようにとの招きを受けたのでした。そしてそこで、彼は、萎えた手が癒され、元どおりになるという奇跡を体験しました。

萎えていた手が癒されたことを、聖書は「元どおりになった」と記しています。それは、もともと彼は元気な手をしていたということです。つまり、何らかの形で、体の一部分が萎えるようになり、彼はみんなから退かれ、隅っこに追いやられていたということです。その彼が、イエスと共に安息日を守ることになったとき、神の癒しの業の恩恵に預かったのでした。そのとき、会堂の緊張感は驚きと感動に変えられ、彼の人間性は回復されました。救われない者ではなく救われる者になり、もう「罪人」というレッテルは外されます。さらに彼には、今まで抱えていた自分の悲しみに打ち勝つ力が与えられました。

そうなのです。イエスの前にいる人間だけが、自分の悲しみに打ち勝つことができ、苦しみに立ち向かうことができるのです。なぜなら、イエスが示される「真ん中」とは、イエスがおられるところ、神の創造の業がありのまま施されるところ、本来の自分自身へ帰って行く自分の真ん中だからです。私たちも、その真中へのお招きを受けています。

安息日は、すべての曜日の中心になる日です。最近、ほとんどのカレンダーは、日曜日が曜日の先頭になるように作られていますが、日曜日は「先頭」というより本来は「中心」なのです。神のときとは、質的なときのことを指し、一度しかないとき、特別なときを現します。私たちがイエスさまによって呼び出された今日、主の日は、神のとき、特別なときです。ですから、日曜日は、暦の順では一週間の先頭になりますが、すべての曜日の最も中心になる日になります。私たちの信仰の歩みは、日曜日を中心にして歩むことが勧められています。一週間の歩みの中でこの日を聖別できること、つまり、イエスのお招きに応えることがどんなに大切か、今日はそのことを分かち合いたいと思います。

皆さんは、「聖別」するという習慣を日常の中でお持ちでしょうか。たとえば、給料や年金、または他の収入がある場合、その中の一部は「聖別する」ということです。もちろん、与えられたものはすべて神さまからのもので、神さまのものです。その中から、信仰に応じて神さまにお返しするものを聖別するのです。聖なるものとして別けるということです。

時間を聖別する習慣も大切です。一日24時間を全部自分のために使うのではなく、朝の30分、または夜の30分は聖別して、人のために祈るときとする。近隣の人、この社会の底辺に生きる人々に思いを馳せる、世界の平和への思いをもって、今戦争のために苦しんでいる人々に心を注ぐ時間とするのです。または聖書を読むときとして過ごしても良いでしょう。そして一週間の一日、日曜日を聖別します。本日の旧約聖書の日課の申命記の中でも述べられています。

「安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じられたとおりに行いなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない」(申5:12-14)。

「安息日を守ってこれを聖別しなさい」と。つまりそれは、安息日である主の日は、私が勝手に自分のために使ってはならない日であるということです。

先ほど、安息日は休息と喜びの日であったと申しました。そのとおり、安息日を守る、つまり主の日を自分の生活の中心において守るとき、私たちはあらゆるものの中から自分自身を取り戻すことができます。私たちの六日間のほとんどは、いろいろのものに束縛されているからです。思うように進まないことに対するいら立ち、不条理な出来事に言葉を失ったり、思わぬ人からの厳しい言葉に落ち込んだり、そんな捕らわれた日々を過ごしてしまいます。

そのただ中で、私たちはどんどん自分を不自由にさせているのです。あの人やこの人のためにというような言い訳の底には、自分の力なさや弱さのために招いてしまった律法的な生き方があるのです。結局、私自身が私を暗闇という牢屋の中に閉じ込めているのです。ですから、みんなと一緒にいて表面的には笑っていても心が萎えているので、いつも隅っこに自分を追いやってしまうのです。

イエスはその私たちをちゃんと見てくださっています。そして、「立ち上がって、真ん中に立ちなさい」と、ご自分の前にお招きしてくださいます。本当は、静かに主の日に預かりたいと思い、小さくなっている私の萎えた心を癒して元に戻してくださいます。そして、その私を、悲しみや不安や恐れの奴隷ではなく、むしろそれらを司る者として派遣してくださいます。私たちが主の日をすべての曜日の中心にして守ることの大切さがここにあります。

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