七夕の愛

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2024年7月7日説教(説教原稿掲載)

マルコによる福音書6章1~13節

七夕の愛

  七夕は、 ひこ星と織姫が、天の川をはさんで出会うことに由来するお祭りです。この2つの星が、1年に1度、7月7日にだけ会えるという星物語です。七夕のお祭りは、昔、中国から日本に伝わりました。そこには、こんな悲しい物語があります。

 天の国の牛飼いひこ星と織姫の愛の物語です。二人はとてもまじめで、ひこ星は牧場の仕事に一所懸命でした。織姫は手が器用で、織姫が織った織物は大変な評判でした。二人は、出会ったときから愛し合うようになりました。そして、毎日一緒にいるようになり、そうなると当然、それぞれ仕事を怠るようになります。ひこ星が働いていた牧場は荒れ果て、織姫も織物を織らなくなりました。それを見た神さまは二人を遠くに離す決心をします。一人は天の川の東の端っこに、もう一人は天の川の西の端っこに。あまりにも愛し合っていた二人は、毎日互いのことを思い涙の日々を過ごします。それを見ていたカラスとカササギは、自分たちの体をつづり合わせて橋をつくって、二人が会えるようにしてあげました。その日が毎年の7月7日であると。その橋は烏鵲(ウジャク)の橋と呼ばれます。7月7日が近づくと雨が降ることが多く、その雨は二人が逢って流す涙だと人々は思った、という悲しく切ない話です。

 日本でも、七夕のお祭りは大切にされ、短冊に書かれた願い事が笹に付けられます。今日、皆さんはどのように七夕をお祝いしますか。会いたいのに会えない人はいませんか。長い間会っていない人がいれば、今日は電話をかける日です。

 愛し合う人同士が別れることは確かに悲しいことですが、今回、私は、別れた二人が、一年に一度は逢えるように、自分たちの体をつづり合わせて橋をつくったというカラスやカササギのことに心が向きました。

カササギは、韓国では、良い客の訪れを知らせる鳥として受け止められています。カササギが鳴くと、今日は誰か嬉しい客が訪れるかもしれないと人々は思います。特に、一年の始まりのお正月にカササギが家の前で鳴くと、今年は喜びの訪れがある年になると思い、皆大喜びします。

 そういうカササギはともかく、カラスのことは日本でも韓国でも、あまり良く受け止められていません。ゴミを荒らすだけでなく、この頃は子育てをする時期なので、近づく人を襲ったりし、人々から怖がられるようにもなりました。いつからカラスと人間の間の距離が遠くなってしまったのかわかりませんが、その距離も縮められたらいいですね。

 このような七夕の話を聞く中で、今日、私たちが一緒に考えたいことは、どんなに愛し合っているとしても、当事者だけでは愛を完成できないということです。愛を完成させるためには、周りの協力が必要不可欠だということを七夕の物語は教えています。

 教会の宣教も同じことが言えるのではないでしょうか。

 神学校で一所懸命に勉強をした牧師が派遣されてきたとしても、または、経験を積んだベテランの牧師が招かれてきたとしても、牧師一人で教会の宣教を担うことはできません。というか、そうであってはいけないのです。信徒と協力して、一人ひとりの賜物が生かされるときに、教会の宣教は始まります。一人の人の生き方も、教会の在り方も、互いに支え合ってこそその歩みが確かなものとなります。

 今日の福音書の中でイエスさまは、12人の弟子たちを宣教の地へ派遣しておられます。その際、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」と厳しく言っておられます。多くの物を所有することによって、宣教のための身軽さを失ってしまうことを、イエスさまはよくご存じなのです。

 遣わされてゆく者の心構えについて、私には反省するところがたくさんあります。

 時代も変わり文化も異なる日本で、イエスさまが述べておられることを文字通り行なうことは難しいですが、しかし、恩師から言われた言葉があります。「教会に遣わされたら、いつでも荷物をまとめて引っ越しができるように身軽に過ごしなさい」という言葉です。「はい」と返事はしたものの、一度も守ったことがないように思います。この箇所を説教する際に思い出す恩師の言葉ですが、守ったことがないということは、私自身の力量が問われていると思います。

 そしてイエスさまはその後にこのように述べておられます。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から出ていくまでは、そこに留まりなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があれば、そこを出て行くとき、彼らへの抗議のしるしに足の塵を払い落としなさい」と。この言葉は、遣わされた者を受け入れる側に対する問いかけではないでしょうか。つまり、宣教のために遣わされた者を受け入れ、もてなし、宣教の働きが御心のままに行われるように助けることが勧められているように思います。

 ここでも、神の国の福音を述べ伝えるためには、遣わされた者と受け入れる側が互いに協力し合うことが不可欠であると述べられています。

 しかし、遣わされた者を受け入れられない所があることを、イエスさまは、前の段落の方で述べておられます。それは、イエスさまが生まれ育った故郷、ナザレです。イエスさまは故郷の会堂で教えておられます。しかしそこの人々は、イエスさまのことを迎え入れてくれませんでした。イエスさまの教えを聞いていた多くの人が、イエスさまのことを知って驚いています。「この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか…」。「こうして人々はイエスにつまずいた」というのです。

 知恵ある話をし、奇跡を起こす人は、どこか特別な身分の優れた家系の人であるはずだというレッテルを貼っているようです。もしくは、知らない所の出身であれば皆優れて見えるということなのかもしれません。

当時、「大工」という仕事は、庶民的なものでした。ヨセフがやっていることをイエスさまは手伝っておられたことでしょう。生まれてヨセフを父として過ごし、大工の仕事を一緒にしていても、人々はイエスさまのことをヨセフの子とは認めてくれていません。「これはマリアの息子ではないか」と人々の言葉。子どもの出生がお父さんの名前で言われるのが普通な社会の中で、母親の名前で呼ばれるということ、それには偏見的な見方がある。つまり、父親がわからない人として見ているということです。小さい頃からイエスさまはそういう偏見的な視線を受けながら育ったのでした。父親が誰かわからない人が、あれだけ知恵ある話をし、人々の病を癒して奇跡を起こしている。ふるさとの人々には信じられませんでした。神さまがあのような人を通して働いておられるかと思うと、むしろ、つまずいてしまったというのです。

 そこでイエスさまはおっしゃいます。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである」と。つまり、何もかも知られてしまった間柄になれば、尊敬の思いは薄れるものだということです。そしてイエスさまは故郷に留まることができず、離れます。支え合って、協力し合う関係づくりが故郷ではできないということは悲しいことですが、このことには学ぶべきことが多いと思います。知らない者同士で助け合って尊い愛を完成させるように。神の国の福音を述べ伝えなさいということ。血縁関係ではなく、 慣習も考え方も、すべてが異なる者同士で、福音を携えて神の愛を現すことが勧められています。それこそが教会の宣教であるということ。逆に申し上げれば、人の群れがべたべたと人間的に親しすぎる関係になるのは、福音宣教にふさわしくないということです。

 ひこ星と織姫がカラスやカササギに助けられてこそ、二人の愛が結ばれていくように、福音に込められた神さまの愛の業も、まったく異なる他人同士が祈りつつ、助け合いながら完成させていくものです。そこに健全な教会の歩みは見出されます。そして、一人の人生の歩みも、まったく期待していない所からの助けをいただきながら完成へと向かわれるのではないでしょうか。ですから、血縁関係や目に見える物理的なものにのみ希望を抱くのではなく、人間的な感覚から離れたところから来る希望に心を開いていく歩み方をしたいです。神さまがご自分の愛を完成させるために、必ず、必要なものを準備してくださることを信じて、さあ、私たちも新たに歩み出しましょう。

 

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