キリストのまなざし
2024年9月1日(日)説教
マルコによる福音書7章1~8,14~15,21~23 節
キリストのまなざし
9月の始まりです。9月の初日を礼拝とともに始められることを幸いに思います。
そして、台風の被害にあわれておられる皆様のことを覚えて祈ります。
さて先週、関東地区青年会のサマーキャンプが行われました。台風が心配だったのですが、天気にも守られて、プログラム通り進めることができました。場所は、長野県の湯ノ丸高原のシャロームロッジというところでしたが、私は毛布で身を包んでいたくらいの涼しさでした。
湿原にハイキングしたときは、山々が濃い霧で覆われていて、神々しい思いさえしました。神秘的な景色の中を歩く、その中で、自分の内側の汚れが洗われるような、不思議な思いをしました。ほんとうに、大自然は素晴らしい力を持っているのですね。だから、昔の人々は、「目をあげて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(詩121)と、山々に向かって神の助けを求めたのでしょう。今回のキャンプのテーマが、この詩編121篇でした。
大自然界は、私たちの内面の汚いものをそっと外に出す力をもっています。先ほど読まれた福音書の最後の方で、イエスさまはそのような悪について言及しておられます。淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒瀆、高慢、愚かさ。このような悪は、確かに私たちの中にあります。それらを、大自然は、そっと追い出してくれるのです。
私たちが平安でいるときにはこれらの感情には気づきません。しかし、心が乱れてくると、これらはすぐ外に出てきます。そして、鋭い武器のように人を傷つけるのです。大自然は、そういう私たちの内実をよくわかっていて、訪れた人を包み込み、そっと癒し、身軽く下山できるように助けてくれます。昔の人たちが、そういう山々を、まるで神さまがおられるかのように仰いでいたのは当然なことかもしれません。
さて、今日イエスさまは、人の中に内在する「汚れ」について語っておられます。それは、ファリサイ派と律法学者たちが、手を洗わないで食事の席に着いたイエスの弟子たちを見て、その責任をイエスさまに追及したことがきっかけで始まったことでした。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と。
この言葉をよく聞いてみると、弟子たちみんなが手を洗わなかったのではなく、幾人かが洗わなかったことがわかります。他の大多数の弟子たちはちゃんと洗っていました。そして、イエスさまに向かって「あなたは」ではなく「あなたの弟子たちは」と言っていますので、イエスさまご自身もちゃんと手は洗っておられることがわかります。
ファリサイ派と律法学者たちは「昔の人の言い伝え」を出して指摘し、イエスさまはそれについて反論しています。イエスさまご自身が手をちゃんと洗っておられるということは、「昔の人の言い伝え」をどうでもいいことと思ってはおられないということです。つまり、その意味で言えば、非難されても仕方がない、実にだらしのない弟子たちがそこにいるということです。ほんの一握りの者たちのために、全体が非難を受けているという場面です。
しかし、その弟子たちを見つめるイエスさまのまなざしは彼らを決して切り離してはいません。イエスさまのこういうお姿は、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(1コリント12:26)という、共同体の在り方を表しておられます。または、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(1コリント12:22)という、そのまなざしです。
このイエスさまのまなざしを受けている弟子たちのことがうらやましくなります。私は、小さい頃、何か失敗したり過ちを犯したりしたとき、その都度母から指摘を受けました。失敗して悔しがっているのだから、私のことを優しく包んでほしかったのですが、そうはしてもらえなかった。なので、私は自分の子どもはちゃんと包んであげようと思いました。そして、イエスさまに出会って自分の弱いところがイエスさまの大きな腕の中に包まれていると思うと、とても幸せです。
どんな弱さを抱えていても誰一人欠けてはならない、そういうまなざしが注がれるイエスさまの愛の深さの中に弟子たちはいるのです。その愛の中に招かれているのです。
誰一人欠けてはならないのです。大切な言い伝え一つ守れない弟子も、欠けることなく必要とされているのです。私の内側、誰にも見えない心の中、その奥底をご覧になっておられるイエスさま、まさに汚れそのものである私自身を、イエスさまは言葉にならずともその温かなまなざしをもって深く憐れみ、愛し抜かれるのです。
ですから、弱い弟子たちを守っておらえるこのキリストのまなざしの中で、私たちは自分の汚れと向き合うことができるのです。そこを避ける必要はないのです。何よりこの方はその私と共に汚れの底に立っておられるからです。つまり私の「汚れ」、それをイエスさまご自身が負ってくださっているということ。
その方はこう言われているのです。「自分の罪と向き合いなさい。その汚れや罪が、私とあなた、神とあなたを引き離すのではない。あなたの罪の汚れのゆえに、私とあなた、神とあなたはつながっているのだ」と。
人は、自分が正しいと思えば思うほど自分の罪と向き合うことをしなくなります。ファリサイ派や律法学者たちはそうでした。自分自身はすべてをちゃんと守っているから正しい人だと思っています。ですから、自分たちのようにあれこれを守ることのできない人の弱さや罪にばかり関心が向きます。人の過ちを数え上げ、指摘し、ついには、神の救いから遠い者として見捨てる。それは、貪欲であり、悪意であり、欺きであり、高慢であり、愚かな姿です。
こうして、「人の中から出て来るものが、人を汚す」ということ。だから、私の中に私を汚し、人を傷つけるものがあることを知ったとき、自分の正しさに固執してはならないのです。また自分の中に籠って孤立してもなりません。なぜなら、自分の弱さや内在する罪は、自分ひとりでは克服することができないからです。
今、私たちは、私の汚れや弱さを共に担ってくださるイエス・キリストの内に帰って行きましょう。キリストの中へ帰っていくということは、みんなと共に生きるということです。あるがままに、他者と共に生きる、その中で自分の汚れや罪と向き合うことができるのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」、その世界を私たちは作り上げるのです。もちろん、それは簡単なことではありません。なくなることのない自分の汚れに打ちのめされ、傷つくこともあるでしょう。だから繰り返し、このイエス・キリストの愛に帰るのです。この主の愛に導かれて生きるのです。どんな人であれ、誰ひとり欠けることのない場所、誰もが罪人のままで帰って行けるところ、それがイエス・キリストの中であり、キリストが頭としておられる教会なのです。
私たちの教会は、この世の中で大自然のような働きを担っています。疲れた人がホッとできるところ。疲れが癒されるところ。自分のどうしようもない弱さを一緒に担って、一緒に歩いてくれる仲間に出会うところ。絶望の中にいる人が希望を見出せる場がここなのです。そのような教会であるためには、私たち一人ひとりの中にあるファリサイ派や律法学者的な性質に気づき、それをイエス・キリストに委ねる作業を繰り返し行わなければなりません。自分の愚かさの裏にある、純粋で傷つきやすい自分に気づくのです。その気づきが繰り返される中で、私たちは、人々が休める森のような存在になって行きます。
望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みにあふれさせてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。
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