これこそ、私の骨の骨、肉の肉

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2024年10月6日説教 梁 熙梅 牧師

マルコによる福音書10章2~16節、創世記2章18~24節

これこそ、私の骨の骨、肉の肉

先週の火曜日は大山に行ってきました。 2年前に行ったときには男坂から登ったために、石の階段で泣いてしまった、その思いをクリアしたかったのです。今回はヤビツ峠から登り、山道らしき道を歩くことができました。なので、大山に対する印象が回復されて嬉しいです。

 もちろん、石の階段ではないから楽だったと言うのではありません。しかし、尾根や木々の根っこからなっている道をあるいていると、余裕ができるのです。自分がそれらにもてなされている、重く運ぶ私の足をちゃんと山が受け止めて支えてくれる。汗を流す体を癒すために私に向かって風が吹いてくる。そう思うと、自分が山の一部になった感じを受けるのです。これが理由で私は山に行きたいと思うのかもしれません。山にもてなされるということがどんなに嬉しいことかわかりません。

 私たちは家に客を招いたときに、いつもとは違った食べ物を作ってもてなします。相手が喜びそうなものを作り、相手がおいしく食べている様子を見て嬉しくなります。一緒に食卓を囲むことの大切さがここにあります。私たちは客に食事を勧めていますが、同時に自分自身をも差し出しています。客も、食事をしているだけではなく、それをつくった人の親切さや語り掛けてくる言葉の優しさをもいただいています。このようにして、もてなす人と客が食卓を囲んで一つになります。

 そしてそれが結婚という形で結ばれた親密な関係性の話になると、説明するまでもないのかもしれません。食事だけでなく、毎日同じ屋根の下で一緒ですから、すべてを分かち合います。相手は、もう一人の私になるのです。とても親しい関係です。しかし、今、どれだけの人が結婚生活の中で悩んでいることでしょうか。本来は、互いの孤独を癒し、助け合う関係として結ばれた尊い関係が歪められ、二人でいてもなお孤独を味わい、尊重し合うよりはののしり合うような関係になってしまっている場合が多くあります。

 先ほど読まれた旧約聖書の創世記では、「人が独りでいることは良くない」と思われた神さまは「彼にふさわしい助け手をつくろう」と、人を深い眠りに落として、あばら骨からもう一人の人をお造りになりました。

 しかし、独りでいる人の孤独に気づかれた神さまは、即、ふさわしい相手をつくったのではありません。その前に仕事をお与えになります。その仕事とは、神さまが造られたあらゆる被造物に名前を付けることでした。その仕事にどれだけの時間をかけたのでしょうか。その仕事を終えた人について聖書はこのように書いています。「人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」と。人が孤独を味わった初めての出来事でした。神さまは、人が、自ら孤独を味わう機会を、仕事を通して与えたのかもしれません。

 そこで、即、神さまは、彼にふさわしいパートナー造りに着手なさいます。ここで、私たちは思います。知っておられるのなら、人を試すようなことはなさらないで、最初からパートナーを造られればよかったのにと。ほかに、私たちの人生の歩みの中でも、これに似たようなことがたくさんあります。私が選択したことで苦しむことがお分かりになったのでしたら、選び取る前に教えてくださればよかったのにと思うことがたくさんです。

 しかし神さまは、人の自由意思にすべてを委ねて沈黙を守られます。それは、ご自分に象られて造られた人には、自分が選択したことに対する責任を果たす力があるということを、ご存じだったからでしょう。

 神さまは、孤独を味わうという、根源的な渇きをもつ者として人を造られたのでした。根源的な渇きというのは、創られたものが創ってくださった方に抱く強い思いです。つまり神さまは、人を造られた際に、人の中にご自分への憧れの心を置かれたのでした。人が自らそれに気づいて、いつでも創造主に向かって歩き出せるように人を創造なさった。

 この頃、豊かさの中に暮らすようになって、孤独という言葉がなんの意味か分からない人が増えてきているようです。人間力がどんどん弱くなっているように思います。

 さて。 人はあらゆる被造物に名前を付けながら自分のパートナーを探しましたが、自分にふさわしいものは見つけられませんでした。自分にふさわしいものはいない、自分は独りである。その気づきが創造主の創造の思いとつながった。そこで早速、神さまは人を深い眠りに陥れ、あばら骨一本を取りだして、彼にふさわしい相手を造ってくださいました。その人を見て、人は言います。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と。パートナーとの向き合い方がここにあります。

 今私たちが暮らしている日本の社会では、男は外、女は内というふうな役割の分担がふさわしい家庭もあることでしょう。しかし、それを社会の制度のようにして、どの家庭も結婚をしたら女は内、男は外というルールのもとにおいてしまうのはどうでしょうか。

 さらには、結婚したなら男の子を産まなければならないという家父長制のもとで、子どもが生めない女性は生きる価値がないように非難されることには強い怒りを感じます。国を形成し王の権力を維持するためには社会を構成する家がどうしても必要だった、そのために結婚が制度化されてきたとするなら、本来、人が、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と告白する真実の相手、自分にふさわしい相手とどうやって向き合うことができるのでしょうか。

 本日の福音書中で、イエスさまも、この告白の歌をとても大切にしておられます。「それゆえ、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だからもはや二人ではなく、一体である」と。このイエスさまのお言葉と、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」は同じ言葉だと思うのです。依存的ではなく独立してふさわしい相手と結ばれていく美しい姿を現している言葉です。この二つの言葉を吟味しながら、私は、イエス・キリストの「受肉」を思いました。「受肉」とは、キリスト教信仰の大きな特徴の一つで、神の御子が人間性をとって私たちを救うために現れたことを意味します。また、受肉の神秘は、イエス・キリストが神の完全な自己啓示であることを教えています。

 その受肉されたイエス・キリストと、私たちは聖餐式で出会います。この方が私たちをご自分の食卓に招いてくださり、ご自分の体と血とを分けてくださいます。私たちは、主の優しいまなざしと真実なお言葉のゆえに、招かれたまま一つの食卓から主の体と血に与るのです。それは、部分的にいただいているのではなく、イエス・キリストそのものを思いきりいただき、キリストと一体となる神秘に与るのです。そのような大いなる出来事に私たちは繰り返し招かれているのです。そして、イエス・キリストと一つになった私たちは、イエス・キリストを現わす者として遣わされてゆきます。つまりそれは、イエスさまが私を通して復活し、もう一人の貧しく孤独な隣人に現されてゆくということです。

 私たちがその主の食卓に与るときには、無防備状態です。聖餐式に与るために、武器を装備したり、教会の入り口を閉鎖して関係ない人は誰も入って来られないようにしたりはしません。つまり、傷つくことを恐れずに、互いに信じあう場として主の食卓を囲むのです。それを家族と言います。どんな姿でもゆるされる場です。寝起き姿で顔も洗わずに食卓に着く家族もいるかもしれません。それでも、家族ですからゆるされるのです。ですから、共に集う主の食卓は、互いの信頼が育てられる場でもあります。

 そして、その私たちに対してイエスさまも、無防備のまま臨んでくださいます。惜しむことなく、すべてを求める人に与えてくださいます。その神の優しさと無邪気に差し出してくださる気前良さによって、私たちはいつの間にかイエス・キリストが受肉された器となって行く。つまり、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」と言って迎えてくださるゆえに、私たちはイエス・キリストのパートナーとなった。これ以上強い絆があるのでしょうか。

 パウロはこのように告白します。「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」と。何ものも私たちに向けられたイエス・キリストの愛から私たちを引き離すことはできません。イエス・キリストと私は、それだけ強い絆で結ばれているふさわしいパートナーです。そのパートナーシップをもって、今週もその方が死者の中から復活されたことを言い現して歩みましょう。

 

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