You can do it!

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2024年10月27日(日)説教

宗教改革主日

マルコによる福音書10章46~52節、エレミヤ書31章7~9節

You can do it!

 時々夢を見るのですが、説教をしようとしますが原稿がない夢を見たり、原稿はあるものの、どんなに頑張ってもそれを読むために目を開けることができなくて困ったりしている夢を見ます。夢から覚めると、目をつぶって寝ているので原稿が読めなかったのは当たり前だったと思いますが、夢の中ではとても困ってしまいます。

 誰も、目をつぶっていれば見えませんし、字を読むこともできません。

 韓国で、修道院で黙想していたときのことですが、そこには目の見えない方も何人か参加していました。休憩の時間に外に出ると、その方たちの話が聞こえました。一人の方が、「ここは本当に景色がいいところだ」というと、もう一人の方が、「そうだね」というのです。不思議に思って、勇気を出して聞きました。「見えていないのに、ここが、景色がいいところだとどうしてわかりますか」と。すると一人の方が、「鳥の鳴き声や川の流れ、風のさわやかさは、見えない人でも感じますよ」と、そして「それ以上にいい景色がありますか」と言うのでした。その話を聞いて私は恥ずかしくなりました。その時の私は、自分の内面の暗闇ばかりを覗いていて、外の美しい景色には何の関心もなかったからです。その方たちと話をしてから私の黙想は深められました。

 どんなに美しい景色が広がっていても、ちゃんと関心をもって見なければ、見えてこないのです。まるでその美しい景色など存在しないかのようにです。私たちはどれだけ多くのときをそうして過ごしているかわかりません。そよ風や鳥の鳴き声、小川の流れが心の平安を司り、新しい道へ導いてくれるものだとわかっていても、自分で目を開き、耳を傾けてみなければ、私にとっては何の意味もないものになるのです。この秋は彩って広がる景色に感動したり、流れる雲や高い空、大空の下で飛び交う鳥の鳴き声に耳を傾けて、与えられたすべての感覚を活用して味わいたいと思います。

 さて、今日の福音書に登場する盲人バルトロマイ。彼は目が見えない人で、道端に座って物乞いをしていました。その日も道端に座って物乞いをしていた時に、「ナザレのイエスだ」という群衆の声を聞きます。その声を聞いた彼は、直ちに「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めます。その叫びがあまりにもうるさかったのか、群衆は彼を黙らせようとしますが、しかし彼はますます、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫ぶことを止めません。その彼の声がイエスの耳にも聞こえました。イエスはその場に立ち止まります。そして、「あの人を呼んできなさい」と言ってバルトロマイをご自分の前に呼び寄せます。

 自分がイエスに呼ばれたことを知ったバルトロマイは、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところにやって来たと聖書は記しています。目の見えない人が、躍り上がって歩いています。つまり、ダンスをしながらイエスのところにやって来たと言うこと。大勢の人がいる中、誰が、どの人がイエスであるかをどうして彼はわかるのでしょうか。見えないのに、どうしてダンスをしながらイエスがいる方へ行けたのでしょうか。バルトロマイは本当に目が見えない人なのでしょうか。

 ご自分の前に来た彼にイエスは聞きます。「何をしてほしいのか」と。すると彼は、「先生、また見えるようになることです」と答えました。彼の返事の中の「また」という言葉が使われています。以前の新共同訳聖書にはなかった言葉です。それで、元のギリシャ語を見てみると、見えると言う言葉の前に、前置詞の「ανά」という言葉がついていました。この前置詞は、再び(again)とも訳せる言葉です。再び見える、また見える。

 ヨハネ福音書音9章にも、目の見えない人の物語があります。イエスさまが唾で土をこねて彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗うと見えるようになったという物語です。そこでも同じ言葉が使われていますが、「ανά」という前置詞はついていません。このヨハネ福音書の彼は、生まれつき目の見えない人だったからです。ですから、本日の福音書のバルトロマイの場合は、生まれつき目の見えない人ではなかった、と言うことです。そして、聖書協会共同訳が原語に対して忠実に訳していることが、このことだけでもよくわかります。

 生まれたときには見えていたのに、いつから、何が理由で見えなくなったのかはわかりません。途中から目が見えなくなることはより不便になることだと言う話を聞いたことがあります。バルトロマイは、その不便さを背負って、道端で物乞いをするために座り続けていました。

 それに、今日の群衆の様子を見ても、人々は彼を、「目が見えない人」、「物乞い」という観点からしか向き合ってくれていない。そういう偏見と差別を受けながら、バルトロマイの心の中には、神への信仰がより深く宿るようになったのではないかと思います。つまり、神さまは今の自分の状況を、必ず良くしてくださると信じていた。ですから、イエスの話を耳にするや否や、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び、イエスの関心を一気に引き寄せています。彼は、神さまを畏れ敬う、信仰深い人でした。

 つまり彼は、自分が、「目が見えない者である」、「今見るべきものを見ていない」という事実をしっかり受け止めていたということです。途中で目が見えなくなったことを人のせいにしたり、失敗した人生であると絶望したりするのではなく、自分の現実のありのままを受け止めていた。そうすることによって、彼の心にはとてもシンプルで澄み切った神への信仰の光が輝いていたのです。

 それゆえ、このバルトロマイの物語は、ただの目の見えない人の癒しの物語というより、心の目が閉ざされている、この私のような人に向けられた福音なのです。目は開いているのに見るべきことを見ていなく、肉眼に見えるまま判断し、偏った見解の中で物事を受け止め、自分の能力や功績にばかり関心があり、自己正しさの中に安住しようとする。そしてそれが思うようにいかないときには、内面の暗闇にすべての関心を集めてしまう。そういう生き方が、弱い立場にいる人への偏見と差別につながることになるということにも気づかずに、いつまでも自分の正しさの中に座り続けようとする。バルトロマイの物語は、その私たちへの救いのメッセージなのです。

 イエスさまは彼の神への信仰深さを見抜かれました。そして言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。この言葉によって見えるようになったバルトロマイは、家族のところへ帰ることもせず、なおエルサレムへ進まれるイエスの後に従います。

 今日は宗教改革主日ですが、聖霊降臨後の暦に従ってマルコ福音書のバルトロマイの物語を通して福音を聞いています。

 マルチン・ルターの時代、教会は、人の行いによって救いが手に入るという教えをしていました。どれだけ奉仕をし、どれだけ献金をしたのか、教会で売られている免罪符を買うことによって天国へのチケットが手に入ると。そうした教会の教えに、人々は盲目的にその教えに従い、それによって教会はますます腐敗していきました。そのただ中でルターは発見するのです。神の救いは人の行いの中にあるのではない。神の救いは、神から一方的に与えられる恵みの中にあると。その恵みは神の言葉、つまり福音の中に隠されている。隠されている恵みの福音は、それを信じる人に姿を現わすと。恵みのみ、聖書のみ、信仰のみという言葉はそこから生まれます。

 福音の中に神の救いは輝いている。その福音の中を覗いて輝く救いの光を見つけるためには、見るべく目が開かなければなりません。それが見えたときに信仰は芽生え育つようになります。しかし未だに、私たちは自分自身の中に座り続けていませんか。目が見えないで道端に座り続けて物乞いをしていたときのバルトロマイのように、信仰を人から乞うために座り続けているのです。それは、自分の魂の渇きに気づかないから、霊的体がなお道場に座り続いていることにも気づかないのです。今の私たちの教会がそういう慢性的な盲人の姿をしているとしたら、今や目を覚ますときではないでしょうか。

 バルトロマイは、見えるようになると、なおエルサレムへ進まれるイエスさまの後に従って歩き出しました。イエスさまの優しい眼差しに触れて、彼は、イエスさまと一緒に迫害を受ける決心ができたのです。それは、彼が安住していたこの世の合理性、この世の血筋、見えていることへの執着を捨てたということです。

 私たちの教会、この群れが、自己満足的な信仰の在り方を捨てて、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と魂の渇きを訴える祈りをし、イエスの道に従う献身者を生み出すことのできる器と変わっていくことを、信じて祈りたいと思います。

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