神の国に近い者

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2024年11月3日(日)説教

マルコによる福音書12章28~34節

神の国に近い者

 この頃、ノーベル文学書を受賞した韓国の作家ハン・ガンさんの作品を読んでいます。先週は「麗(よ)水(す)の愛」という作品を読み終えました。「麗水」とは地名です。麗水がふるさとである人と、きっとふるさとであろうと思っているもう一人、この二人の女性の物語です。ソウルで偶然一緒に暮らすようになった二人には、小さい頃、望ます家庭の事情によって抱えてしまったトラウマがありました。その二人の女性は全く異なる生き方をしているのですが、ふるさと麗水に対して生きることにおいては同じでした。ふるさとのことを思い出したくないのに心が引き寄せられ、行きたくないのにいつの間にか列車に乗って向かっている。そこにはこのような一節がありました。「どこへ行こうとも、そこへ行くことになる」と。

 この本は、作家が若いときに書いた短編小説ですが、それを読んだだけで、生身の人間の中の深い暗闇を貫いて描き出す、作家の鋭い視点に出会います。ある場面では、私の苦しみと重なってきて、読み続けることが辛いところもありました。リアルに人間の弱さや暗闇の世界を掘り起こしている作品です。

 この本を読んで、人って、聞くにも堪えないほど辛い物語を抱えているのに、たんたんと日常を生きている、私自身も、そして周りのみんなも、死と生の境界線に立たされながら、結構必死に生きているということを改めて考えさせられています。

 そして、「どこへ行こうとも、そこへ行くことになる」というこの一説。これは、読んでいる私には大きな慰めの言葉でした。ここで言う「そこ」とは、ふるさと「麗水」のことです。さ迷っていても結局ふるさとに向かっての歩みになると言うことを述べているのでしょう。つまりそこは、神さまがおられる所。救いの場、赦される安らぎの場、神の国です。人にとってふるさとは神の国なのです。ですから、自分を傷つけたところであっても、やがてそこへ帰ろうとするのでしょう。

 ハン・ガンさんが優れた作家だと思ったのは、彼女が書いた小説が私の心の深い傷に共感してくれている、私の傷が彼女の小説の中の傷ついた人々と共感しているということでした。

 私には人には言えない秘密があります。トラウマとまでは言えませんが、私の人生をかなり迷わせた辛い物語があります。ここにおられる皆様の中にも、きっと、人に言えない秘密を抱えておられる方もおられることでしょう。そして、御許に召された私たちの家族や信仰の先輩や仲間たちも、死ぬ瞬間まで、秘密を抱えたまま召された方がおられるかもしれません。そのために、どれだけ迷わされたことか。しかし神さまは、すべてご存じです。私が迷っていた道のりのすべてのところに、一緒におられたからです。そして、この世での命が尽きて御許へ帰ったとき、神さまは私の秘密をご自分の物語の中にそっとおさめ、すべて赦された者として受け止めてくださる。私たちはその神の愛、十字架の愛を信 じられるから、今という日常をたんたんと生きられるのではないでしょうか。

 十字架の愛と申しましたが、この十字架の形を見てください。縦と横が組み合わされています。縦は神さまと人との関係を現し、横は人と人との関係を現します。そしてクロスされる真ん中が神の国です。私たちは常にこの真中へ招かれています。しかし、一生涯の中で何度そのお招きに応えられるのでしょうか。そこへ行けば疲れが癒されて安らぐことを知っていても行かないのです。背負っている重荷が降ろされて身軽く自由になることも知っていますが、いつか行こう、余裕ができたら行こうと思って、すぐには行きません。

 さて、今日は全聖徒主日で、先に御許に召された方々と一緒に礼拝を守っています。御許におられる方々を覚えての礼拝というより、一緒に礼拝をささげているという理解です。

 この日に与えられた福音の中に、最も重要な掟としてこのような言葉が述べられました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが第一の戒めである。第二の戒めはこれである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる戒めはほかにない」(30-31)と。

 この戒めを他に十字架で現すことができると思います。神を愛する縦の関係と、隣人を愛する横の関係、それが出会う真中、そこが十字架の愛です。ですから、神を愛することと隣人を愛することはかけ離れたことではなく、隣人を愛することが神を愛することになり、神を愛するためには隣人を自分のように愛するほかないということになります。二つの戒めは一つのことを述べているのです。

 この戒めが実践されているところがあります。ルカによる福音書の10章に描かれている良いサマリア人の物語です。

 ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追剥に襲われて暴力を受け、持ち物や着ている服まではぎ取られ、瀕死状態で倒れていました。その傍を祭司やレビ人が通ります。しかし彼らは、見て見ぬふりをして反対側を通って行ってしまいます。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、倒れている人を見て気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで手当てをし、自分のロバに乗せて宿屋へ連れて行き、介抱します。そして、出かける朝、宿屋の主人に介抱してくださることを頼んでお金を渡し、もっとかかったら帰りがけに払うと約束して出かけます。倒れていた人はユダヤ人で、その人を助けたこの人はサマリア人でした。当時も、ユダヤ人とサマリア人は互いを敵対視していました。

 この物語は、永遠の命を受け継ぐためには何をしたらいいのかと聞いてきた律法の専門家に、イエスさまが彼への返事として語られたお話です。

イエスさまのお話の中のサマリア人は、倒れている人が、自分たちが敵対し合っている人かどうか、また、その人を助けることで自分が汚れることや危険に合うことなど考えていません。この旅人は、倒れている人を見て気の毒に思っただけです。気の毒に思う、他の聖書では憐れに思うと訳していますが、これは、困っている人を神の愛の中に、神の救いの中に導く、とても大切な気持ちです。

 気の毒に思う気持ち。今瀕死状態になっている人をまず助けるということ。小さい頃から傷つけられて、そのために自分のことを見捨てられた者だと卑下し、悲観的にしか人生を捉えられない人に、あなたにも帰れるふるさとがある、いつでも大歓迎してくださる方がおられるという確信を抱かせ、人を生かす気持ちなのです。

 神さまは常にこの気持ちをもって私たちにかかわっておられます。私たちがどんなに自分勝手で暗闇の中を歩き、神さまの存在を否定し、自分の人生を傍観者のように生きてしまうとも、その私を気の毒に思い、憐れみ深い愛をもってどこまでも寄り添ってくださる。善いサマリア人はその神さまの姿にほかなりません。ご自分の大切なものを差し出しながら死と生の境界線に生きる私たち一人ひとりに寄り添い、立ち上がって歩きなさいと励ましてくださる。人には言えない私の深い傷に癒しの包帯を当てながら介抱し、自分自身を大切にするように憐み深い愛を注いでくださる方。隠そうとしても、神さまは、疲れていて、よたよたとしか歩けない、その私たちの内面の状況をよくご存じなのです。

 私たちにこれ以上に優れた隣人がおられるでしょうか。こういう方を隣人として持つ私たちはどんなに幸せな者かわかりません。自分の力ではなかなか十字架の真ん中を生きるのが難しくとも、この隣人のゆえに、私たちはその近くにいるのです。

 そして、御許に召された私たちの家族や信仰の先輩や仲間たちは、この方と一つになって安らいでおられます。やがて、そこで再び会える。そのときまで、残された私たちのこの世での歩みがふるさとへ向かって歩む、幸いな歩みでありますように祈ります。

 希望の神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

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