ラストランナー
2024年11月10日(日)説教
マルコによる福音書12章38~44節
ラストランナー
先週は全聖徒主日を迎え、御許に召された家族や信仰の仲間たちと共にささげる礼拝に私たちは与りました。私にとっては聖徒の交わりについて考えさせられたときでもありました。イエス・キリストに従う群れに入れられた一人ひとりが主にあって家族とされ、良い物を分かち合って交わるようにされているのです。良いものとはイエス・キリストの福音のことです。先週は、十字架を用いて横の方は隣人との関係を現すものだとお話をしました。
そして、鵠沼教会に来て私がとてもいいなと思ったことの一つは、その横のつながりがとてもいいということでした。一人暮らしをしている方を訪ね、誘い合って一緒にランチをし、主日の礼拝に一緒に出席する姿に私自身が励まされました。というのは、教会以外の仕事で忙しく、思うように皆さまを訪ねることができていない、その私の仕事を助けてくださっていると思ったからです。
イエス・キリストの家族とされた聖徒たちが現すべき尊い姿を、皆様は現しておられるのです。聖徒の良き交わりを通してイエス・キリストを証する、そこが教会なのです。
さて、今日私たちは、イエスさまが律法学者を批判しておられるところと、レプトン銅貨二枚をささげてしまったやもめの物語を通して福音に与ります。この二つは異なるもののようですが、実はつながっているものです。というのは、イエスさまに批判されている当時の律法学者たちは、お金がありそうなやもめの家を無理に訪ね、長い祈りをささげてはたくさんの献金を受け取っていました。やもめたちは律法学者たちが祈りに行くと言われても断ることができず、一方的に受け入れざるを得ない状況でした。その状況をイエスさまは、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と批判しておられます。
そして、その後イエスさまは、貧しいやもめが献金をささげる様子を眺め、褒めておられます。
このように、貧しいやもめが献金をささげる様子が律法学者との比較の中に置かれている、この物語は、実は、続く13章の終末の徴に対する導入として理解することができます。というのは、来るべき世の終わりには、律法学者たちのように、富による身の安全や、地位の確保という因習的な人間的欲望によって積み上げたものは何の役にも立たないと言うことを現しているからです。ですから、そうではなく、この世の終わりには、純粋な神への信仰が問われるのだということです。
ちょうど先月、オンライン聖書の学びでこの箇所を学びました。そこで出された一つの質問、レプトン銅貨二枚をささげてしまったこのやもめは、その後どうなったのでしょうか。この疑問を今私たちももっているのではないでしょうか。彼女のありったけ、持っている物のすべて、生活費の全部を献金箱に投げ入れたこの人は、その後一体どうなったのだろうかと。
しかし、ここで大切なことは、聖書は、この彼女を語ろうとしているのではなく、そのレプトン銅貨二枚を受け取られた方のその後について語ろうとしているということです。
つまり、このやもめのレプトン銅貨二枚、いいえ、それをささげたこのやもめを、リレー競技のバトンをアンカーが受け取るように、主が受け取ってくださっているということです。ですから、ここで感謝するのは、自分の人生の結末は自分でつけるのではないということ。私の最後を走りぬいてくださる方がおられる。このやもめは、貧しくともありったけのレプトン銅貨二枚を抱えて、人生を投げ出したのではなく、その生を走りぬいたのです。神殿へ、神へ、神のもとへと彼女は走りぬきました。そのレプトン銅貨二枚、彼女の生を受け取って、今度はイエスのラストランが始まります。命をかけて、この貧しいやもめのための勝利へのラストランが、彼女が全てをささげてしまったことで始まったのです。十字架の道、それは最早私たちに代わってこの方だけが走り通す道であり、 この方だけが死ねる道なのです。しかし、神はその道を走りぬいたイエスを死から命の道へ復活させてくださる! 聖書はイエス・キリストの死と復活に集中しているのです。
私は、このやもめのことを、先月のオンライン聖書の学びでの質問を受けたときから思い巡らすなか、9月の終わりに行われた幼稚園の運動会の様子を思い出しました。リレーの子どもたちの走る様子です。白組と赤組、最終的に幅が出てしまった距離を戻そうとアンカーは必死に走ります。しかし、追い抜くことは難しい。チームの負けを受け入れざるを得ない。小さい子どもたちの心に悔しい思いが残ります。しかし、どうせ負けるからと思って適当に走るのではなく、全力を出して、最後まで走る。そのラストランナーと、私たちの人生の終わりに、渡されたバトンを受け取って、神に向かって、勝利に向かって必死に走ってくださるイエスさまが重なりました。
純粋に自分の道を走りぬくという子どもの姿。その姿が自分にはないのです。どうせ負けているのだからと結果を先取りし、一所懸命に走らないのです。つまりそれは、自分の内面には、結果を恐れさせるものがそれだけ多くあるということ。つまり、ゴールが教会や神ではなく、自分だったり、持っている物や才能、人々からの評価に置いていたりするから、思い切り走れないのだと思うのです。信仰者を装って生きている、その自分が救われるそこが聖徒の交わりの場なのです。この群れの中に入れられた幸いに感謝しかありません。
皆さんの中にはそういう恐れの思いがありませんか。使徒パウロの中にもそういうような恐れがあったようです。ですから彼はフィリピの信徒への手紙の中でこのように述べています。
「きょうだいたち、私自身はすでに捕られたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)と。
後ろのものを忘れて前のものに全身を向けよう、と。彼の以前は、生まれて八日目に割礼を受けたこと、ベンヤミン族に属するヘブライ人で、ローマの市民権をもち、律法の義に関しては非の打ちどころのない者であった。その自分を誇りにして生き、それらを益とみなしていた。しかし、今やキリストにあってそれらすべてを損失とみなすようになったと告白しています(フィリピ3:5-7)。しかし、その彼でも、時々恐れが生じるのでしょうか。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けよう」と、あえて勧めているのです。
過去の出来事、社会で得た地位や肩書、その結果授かった富と人脈。誇らしいものではありましょう。しかし、むしろそれらが神に向かって真っすぐに走る道の妨げになっていないだろうか。レプトン銅貨二枚をささげてしまったやもめの姿を通して、今の自分を見つめてみたいのです。
聖書は私たちに呼びかけています。あなたもあなたのレプトン銅貨二枚を抱えて、さぁ、精一杯走るがよい。結果は気にするな。決して投げ出すな。あなたをしっかりと受け取ってくださるアンカーが待っている。あなたを勝利のゴールへ伴ってくださる方がおられる、と。泣きながらでもいい、よろよろとよろめきながらでもいい、あなたが自らを差し出す先に主が、あなたのラストランを走ってくださる方がおられると。
このレプトン銅貨二枚をささげてしまったやもめの物語は本当に小さな物語ですが、私たちにとっては人生最大の物語です。同じく私たち一人ひとりの物語も小さな物語のように見えますが、私たちを最終的に受け止めてくださる神さまにとっては、出かけて帰ってこない放蕩息子を待つがために、ほとんどの夜を眠れずに過ごしてしまうほど、大きな物語なのです。それだけ大切な一人ひとりなのです。ですから、神さまに大切にされていることを、私たちは、今交わっている教会の家族の中で現わしましょう。
この群れの交わりの中で神さまの救いの業を証し、イエス・キリストを現す多くの物語が生まれますように祈ります。
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