惑わされない様に!

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2024年11月17日(日)説教

マルコによる福音書13章1~8節

惑わされない様に!

 いよいよ聖霊降臨後の暦も終わりに近づきました。暦に合わせて福音書も「終末」を現すところが選ばれています。私たちは、聖書が記す「終末」の徴があまりにも著しいので、自分の日常とかけ離れた事柄のように捉えがちです。太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の諸力は揺り動かされると聞いてもリアル感が湧いてこないかもしれません。

 しかし、自分のことをよく観察してみると、あの著しく思える凄いことが起きていることに気づかされます。私たちは、数えきれない不安を抱えて生きているのです。歳を取ってきて、人生の終末に近づいてくれば、視力も衰え、判断力も鈍くなり、足元がおぼつかなくなります。みんなが通る道と思っても、自分にとっては、そこから来る不安が小さなものとは言えません。

 ですから、なるべく外から不安を煽って刺激してくるものは避けたいものです。

 祈る人たちの日常を見てみると、ほんとうに、最小限に必要以外のものには近づかないように、また近づかせないようにしていることがわかります。霊的に深く神さまに通じているようでも、人間である限り、誘惑は絶えないからです。そうやって自分自身の弱さを認めることが、祈ることから気づかされることなのだと思うのです。

 私たちの日常の中には不安を抱かせるものが多いのですが、最も近くにあるものがテレビやインターネットだと思います。もう習慣になってしまっていて、テレビの音がしないと不安でしょうがないとおっしゃる方もおられます。

 しかし、テレビに映る映像が観ている人に記憶され、不安を煽る材料となります。世界で起きている戦争や台風や地震の被害などを詳しく知ることはできますが、それが自分の内面を刺激し、不安を煽ってしまうのです。ですから、祈りの生活をしようとするならテレビやインターネットは遠ざけた方がいいと思います。

 先週の新聞に、5年前に池袋で、暴走した車に跳ねられて、妻と子を失った方の記事が載っていました。彼は、自分が現場にいたわけでもないのに、事故の現場を想像しているだけで、それが記憶となり、トラウマとなって苦しんだと話していました。想像するだけでトラウマになるということです。ですから、はっきりと映像を観たとするなら、確実に観ている人に記憶され、不安を煽る材料を自ら収集しているということになります。

 さて、イエスさまは、「人に惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃいます。

人に惑わされないように」とは、「信仰の動揺を起こしてはならない」ということです。つまり、神さまとつながっている平安を崩さないように気を付けなさい。

私の名を名乗る者が大勢現れ『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(6節)。ここでいう「私の名を名乗る」とは、「私の名において」という意味で、「私がそれだ」とは、原文では「私である」という意味です。つまり、「エゴ エイミー」という原文で、神掲示、メシア掲示のときに使われる言葉です。ですから、自称、自分がメシアであるという人が大勢現れるので警戒しなさいとイエスさまは警告しておられるのです。

 今、水曜日の聖書の学びでは使徒言行録を学んでいますが、先月学んだ5章には、イエスさまが警告しておられるようなことがこのように記されています。

イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に加わったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった』」(使徒5:35-36)。

 もう少し進んで5章37節には、「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、従っていた者も皆、ちりぢりにさせられた」。

 これは、ガマリエルという人が、ペトロやヨハネたちを守ろうとして、すぐ殺そうと騒ぎだす議員たちを落ち着かせようとして述べた言葉です。つまり、イエスが偽物のメシアであるなら、従う人たちも、やがてはちりぢりにさせられることでしょうということです。

 当時、ローマの支配に対する不満の爆発で起きたユダヤ戦争の緊迫した事態においては、人々の終末への備えを急ぐ傾向は一段と強くなり、自称メシアという人たちもあちらこちらで現れ、民衆を動揺させていました。そういう状況ですから、イエスの弟子、または初代教会は、真のメイアと偽メシアとを識別する目を持たなければならなかったのです。

 戦争、飢饉、地震の知らせ、そして偽メシアの出現、これらが終末の徴であると人々は捉えていました。しかしイエスさまは、それらの知らせを聞いても、まだ世の終わりではなく、生みの苦しみの始まりに過ぎないとおっしゃっています。だから、誤った行動と熱狂的な誤った信仰に気を付けるように、厳しい批判を加えておられます。もっと申せば、教会は、終末前の試練のときを、忍耐をもって耐え忍ばなければならないということです。

 実際、弟子たちは迫害に遭いました。「あの名によって教えてはならない」と厳しく命じられていましたが、「人に従うより、神に従うべきです」と言って、堂々とイエスの名によって述べ伝えることによって、多くの人々が洗礼を受けるようにはなりましたが、キリスト者が増え続けることに不安を感じた当局はキリスト者に迫害を決行したのです。

 つまりそれは、まだ世の終わりではなく、生みの苦しみの始まりに過ぎないというイエスさまのお言葉をそのまま生きたということです。これはとても大切なことです。まだ世の終わりではないから、安心して楽しく過ごそうというような、一か八か的な生き方をするのではなく、その日その日に受けるべき迫害とまでは言えなくとも、キリスト者としての終末に備える歩みをすることが求められていると言うことです。

 それは、終末とは、この世の終わりのときで、それまでの生活が何もかも無意味になる審判のときのことではないからです。そうではなく、「完成」のときであるからです。私たちの人生の終わりのとき、それは私たちの人生が完成されるときなのです。そして、その完成に向かう道のりには試練が伴われるということ。ですから、キリスト者として受けるべきその試練を識別するためにも、「惑わされないように!」、「生き方に気をつけなさい!」とイエスさまは勧めておられるのです。

 今、時代が変わり、日本でキリスト者という理由で差別を受けたり、何らかの被害に遭ったりするのは少なくなりました。しかし、今でも、世界のどこかでは、キリスト者という理由で迫害に遭っている国の人たちが大勢います。米軍が撤退した後タリバンが政権を握ったアフガニスタン、北朝鮮、ソマリア、イエメン、スーダン…、この他にも多くの国のキリスト者たちが目に見える迫害にあっています。

 これらの国々に比べるまではいかないかもしれませんが、ノンクリスチャンの家族と暮らしていると、日曜日ごとに教会に行くことに気が引ける、そのことで辛い思いをしている方もおられるかもしれません。でも、特別な用事がない限り、日曜日に教会に行くのは大きな証になります。嫌がる家族、または日曜日ごとに休みをとるので嫌がる職場の方々に、イエスさまを証しできる一番のチャンスなのです。そういう迫害は大いに受けようではありませんか。

 「惑わされないように気をつけなさい」と、イエスさまのお言葉。

 身体が衰え、残りの人生の道のりがあまり長くないと思い、その思いで生きようとすると、浮き足だって、地道に、着実に生きることを放棄してしまいがちです。しかし、「たとえ明日私の終わりが訪れるとしても、今日私はリンゴの木を植える」とルターが言ったとか、言ってないとかという言葉通り、甘んじてキリスト者としての試練に耐える信仰を備えつつ、この世での最後のその瞬間まで、自分の鼻から出入りする息をしっかり数えられる、地に着いた歩みをしていきたい。私のような欠けの多い器の中に聖なる方、イエス・キリストが宿ってくださった。私の人生を尊び、聖なる器に導いてくださったと証できる日々を過ごしましょう。

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