真理を証する人

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2024年11月24日(日)説教

聖霊降臨後最終主日

成長感謝合同礼拝

ヨハネによる福音書18章33~37節

真理を証する人

 今日は子どもたちの成長をお祝いし、神さまに感謝して一緒に礼拝を守っています。子どもたちがこの礼拝の場に一緒にいることがどんなに嬉しいことかわかりません。それらしき形の中に自分を当てはめ、それが最もと思い込んでしまう、その自分の殻から出てきて自由になるように子どもたちは促してくれるのです。いい人にならなくてもいい、素直に、ありのままで、自分らしく生きなさい、失敗を恐れないで!と励ましてくれています。

 昔のことですが、子育てをしていた頃、寝ている子どもを見ながら泣いてしまったときがありました。初めてのことで、ちゃんと育て上げなければならないと思っていたので、育児に一所懸命でした。それで疲れてしまい、ブルーになっていたのです。ある日、寝ている子どもの顔をじっと見つめていた私は、自分が良い親になろうとしていることに気づかされました。この子が私を親にしてくれているのに、自分が一方的に親の役割を果たそうとがんばっている。その気づきで私の気持ちはとても軽くなり、重荷が降ろされ、自由になったという思いでした。そして、未熟な自分でも、この子によって少しずつ親になっていく、この子が私を親にして成長させてくれるのだと、感謝の思いに溢れました。それから子どもが私から巣立っていくまで、何度ハラハラさせられ、どれだけ人々に謝ったことかわかりません。しかし、それらすべてに感謝しています。自分が親を超えて、人間としても成長する機会を子どもはくれたからです。

 こうして、人は関係性の中でこそ生かされるものだと思います。親子の関係、夫婦関係、友だち関係、職場の仲間や教会、隣人関係・・・こういう関係の中で人は本当の自分を見出し、互いに成長していくのです。

 先週、施設に入っておられる教会の方をお訪ねしました。入って数カ月が経ち、施設での暮らしにも少し慣れておられるような様子でしたので、「少し慣れましたか」と伺いました。すると、「自分がいったい何者か分からなくなっちゃった」とおっしゃるのでした。しかし、今日、二人が訪ねてくれたので、やっと自分が何者かが分かったと。

 私はこの問いかけを聞いてとても胸が痛みました。一人暮らしが難しくて施設に入られたのですが、何十年も結ばれて共に生きたいろいろの関係から切り離されて、新しい環境の中に身を置くことの厳しさを痛感したのです。

 生活は楽になりましたが、その楽さに生きるためには諦めなければならないことがたくさんある。その方は、入ってすぐ二つのことを諦め、そして最近、もう一つ、とても大切なことを諦めたとおっしゃっておられました。

 ですから、教会のコミュニティはとても大切なものなのです。互いの存在を受け止め、神の前に生きる者であることを互いに確認し合う場であり、そういう関係なのです。もちろん、家族関係も同じですし、そのほかの関係もそうでしょう。私たちが本当の意味で生きるためには、関係性を離れては難しいということです。

 さて、先ほど拝読された福音個所は、ユダヤを統治するローマ帝国の総督ピラトとイエスさまが対話なさる場面です。王のイメージについて語られています。ピラトはイエスさまに、「あなたはユダや人の王なのか」と聞き、イエスさまははっきりと答えておられません。それから、ピラトはもう一度イエスさまに聞きます。「やはり王なのか」と。

 ヨハネ福音書には、イエスさまが王であるイメージが他より多く書かれています。1章では、ナタナエルが、イエスさまの弟子になる際に、イエスさまのことを「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と言っていました。

 6章では、二匹の魚と五つのパンで五千人が満腹にされた際、人々がイエスさまのことを王にしようとしていると記されています(15節)。

 19章では、イエスさまが捕らえられた際、ローマ帝国の兵士が、茨の冠を作ってイエスさまの頭に載せて、イエスさまに暴力を振るい、「ユダヤの王、万歳」と言いながらイエスさまをあざけっています(2~3節)。また、イエスさまの十字架上の罪状書きには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれています(19:19)。そして今日の箇所です。

 このようなことから、聖霊降臨後の最終主日である今日を、王でおられるキリストの主日としも守るようになっています。教会によっては、聖卓や牧師のストールが、王の権威を現す金色で飾る所もあります。私たちの教会は、暦の流れを大切にしていますので、緑色のままです。

 今日が王なるキリストの主日と申しましたが、その王様というのは、この世の王様のように政治的な王様のことではありません。今日ピラトとの対話の中でイエスさまが、「私の国はこの世のものではない」とおっしゃるように、神の国のことです。イエスさまは神の国の王でおられるということです。神の国はこの世に属していない。しかし、この世のただ中に臨んでいます。決して死んでから入る国のことだけではなく、今、ここに、私たちの間に、確かに臨んでいて、私たちに救いの手を差し伸べています。

 イエスさまは、その神の国の具体的な働きのために私たちの間に生まれ、神さまの温かい望みと救いの業を伝え、人々がその望みに生かされて救われることを願う働きをなさいました。そして、十字架の上で死に、死者の中から復活なさいました。このイエスさまを通して神さまの救いは私たちにまで届けられたのです。すべての人の罪が赦され、あらゆる縄目から解放されて自由に生きるようにしてくださった。

 イエスさまは、今日、ピラトの前でこのようにおっしゃっておられます。「私は、真理について証をするために生まれ、そのために世に来た」と。イエスさまが私たちの間にお生まれになったのは、「真理について証をするため」であるというのです。その「真理」とは何のことでしょうか。「真理」とは変わらないものです。

 昔の人たちは、変わらないものと思われるものを拝むようにして信仰を保っていました。大きな岩や山、太陽や月のような、変わらないと思ったものに信頼をおいていたのです。今も世界各地でこれらのものに向かって信仰を抱く人は多くいます。しかし、聖書では、これらは神を具体的に現すためのメタファーとして用いられます。岩なる主、我々の救いは山から来るとか、太陽や雲もそうです。自然界の多くのものが神さまを現すために用いられるので、とても豊かな表現になりますが、あくまでもそれは比喩であって、神そのものではありません。

 そしてそれらは変わらないのか。いいえ、変わります。目に見えるものはすべて変わります。日本は四つの季節がはっきりしていて暮らしやすい国と言われていましたが、段々夏が長くなり、四季ではなくなってきました。夜と昼の在り方も、これからどうなっていくかわかりません。目に見えるものはすべて変わります。唯一変わらないのは、神さまのみです。

 ですから、「真理」とは何か。それは、神さまのことです。イエスさまは神さまについて証するために、私たちの間に生まれてくださった。つまり、ヨハネ福音書は、神さまのことを「真理」と表しているということです。

 イエスさまは神さまのことを証するために、いつも神さまと交わりを持ち聞いておられました。それは当然なことのように思いますが、しかし実践は難しいです。私だったら、昔学んで知っていることを語るのだと思います。神さまとの関係を大切にしていると言いながら、人は、自分自身との関係以外はそれほど大切にしないのです。神さまや他者との向き合いも、常に自分の殻の中に閉じこもった形で向き合いますから、あまり深く知り合うこともなく、形式的になっている場合が多いのです。しかしイエスさまは、毎日、常に神さまとの交わりを実践しておられました。

 ヨハネ福音書14章でイエスさまはこのようにおっしゃっておられます。「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(10節)と。

 このイエスさまが、神さまとそうやって交わっておられたように、私たちの分厚い心の扉をノックしておられます。貧しく、冷たい私と親しくなって、神の国のあれこれを与えて満たそうと、関わりを求めておられるのです。小さなことで右往左往してしまい、人の評価にすべてを委ねようとしてしまう私たちに、天地が滅びても決して変わらない方がおられる、あなたを救うために命をも差し出してくださる方があなたのすぐ傍におられることを証してくださっています。その差し伸べられるイエスさまの聖なる手、神の国の王なるイエスさまの癒しの手に、奥からしか開けられない自分の心の扉を開いて委ねませんか。イエスさまとの関係においてのみ、私たちは、神さまを知り、神さまを証することが出来、さらには本当の自分を見出すことが出来るからです。

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