神の国はすぐそこに
2024年12月1日(日)説教
待降節第1主日
ルカによる福音書21章25~36節
神の国はすぐそこに
今日から教会の暦は変わり、新しい年が始まりました。今年はC年と言い、ルカによる福音書の年になります。一年間ルカ福音書を通して神の国の糧をいただきます。ですから、アドベントの過ごし方として、ルカ福音書はほかの福音書とどう違うのだろう。もっと辛口なのか、甘口なのか、他の福音書にはないものはどのように描かれているのか。ルカ福音書を読みながらアドベントを過ごしてもいいかもしれません。ルカ福音書は24章ありますから、日曜日を除いて毎日一章ずつ読めば、クリスマスまで完読できます。予め読んでおけば、一年間じっくり味わえます。
先週、幼稚園の先生たちがツリーを飾り、アドベントクランツや聖家族を準備してくださいました。感謝です。こうして、救い主の訪れの道は、隠れたところで静かに奉仕してくださる方々によって備えられるのです。決して当たり前に迎えるイベント的なものではありません。
そして、待降節の間の典礼色は、謹んで悔い改めることを現す紫色です。イースターの前の四旬節と同じです。クリスマスとイースターの祝い方は違いますが、本質的なことは同じです。つまりそれは、新しく生まれるということ。イースターは、死者の中から復活する、古い自分が死に新しく生まれるために、四十日間悔い改めのときを過ごします。ただイエス・キリストの復活を祝うためのイースターではなく、私自身の古い自分が死んで新たに生まれるときなのです。
クリスマスも、救い主イエス・キリストが生まれることを祝うことに留まるのではなく、自分がマリアになって救い主を産み出すのです。そのためには驚きや戸惑いもあります。母マリアもそうでした。ですから、待降節をほかの言葉では冒険を現すアドベントと言うのだと思います。救い主を産むということは、新しい私を産み出すことなのです。
母マリアは、イエスを産むことを「はい」と言って受け入れました。イエスを身ごもって産むために人生をささげたのです。周りのみんなと同じく平凡な人生を生きようとしていた田舎娘マリアは、自分の想像を遥かに超える出来事を受け入れたのです。どんなに驚き、戸惑ったことでしょう。それは、大きな冒険でした。ですから、断ってもよかったのです。しかし、「はい」と言って受け入れた。自分の人生だけれど、自分が思い描いた通りではなく、神さまの介入によって変えられても、それでいいと言ったのです。それは、マリアの意思が強かったからとか、他の人より能力があったから実現したのではありません。
それでは、マリアのどんなことが救い主を身ごもる器としてふさわしかったのか。私たちは、待降節の間、ルカ福音書を読み、マリアのことをも吟味しながら、母マリアに自分を重ねる作業をしてみませんか。
ある人はこのように述べます。
「キリスト者の本質は、言葉ではなく経験(円熟)にある。経験抜きのキリスト者など、ひとりとして存在しない。ここで経験というのは、人生経験のことではなくて、神を経験することである」と。
神を経験するということ。そのために、私たちはマリアに自分を重ねてみるのです。救い主が私を通してお生まれになる、そのために私はどんな神経験をするのだろうと。驚きと戸惑いをもたらしながら近づく神の言葉、神の存在、そのリアリティ。この世の合理的な考え方の中で過ごす私たちをひっくり返していくその出来事が、待降節の間、皆様の内に現れますように祈ります。
さて、先ほど読まれた福音書の中でイエスさまは、自然界の木々の動きを見て季節を知るように、神の国の訪れも、天体や世界の国々の動きを見て悟りなさいとおっしゃっておられます。「太陽と月と星に徴が現れ、地上では海がどよめき荒れ狂う中、諸国の民は恐れおののく」(25節)と。人々はこれらのことで恐怖を覚えて気を失うけれども、あなたがたは、「身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ」(28節)と。
その日には、私たちが今まで経験したことのないことが起きるとおっしゃるのです。しかし、恐れてはならない、おののいてもならない。それは、あなたがたを救うために起きることなのだから。続けてイエスさまはおっしゃいます。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と。私たちが何に信頼を置いて生きるべきかを教えておられます。
先日、北海道の家族が天に召され、急遽行ってきました。夫婦がとても仲良く、何をしても二人セットで動いていたので、周りのみんなは残された母のことを心配していました。私も心配になり、葬式から帰ってきて、今までより間隔を短くして電話をするようにしていますが、先週の電話で、私が、夕飯食べた?と聞いたら、彼女はこういうのです。「もう、お父さんは天国へ行って神さまと毎日祝宴に与っておいしいものを食べていると思うから、私も食べたいものを食べることにした」と。
この言葉に、ほっとしました。そして、私自身の信仰の在り方を考えさせられました。神を信じていると言いながら、自分の感情に執着している私に同じことが起きたら、きっと悲しみに暮れて、まともに食事もしないで、暗い顔をしていると思うのです。いつまで経ってもくよくよしていて、「死んでしまった」、「もう一人だ」とつぶやきながら、いつまでも自分の暗闇の中に閉じこもっていることでしょう。普段聞いていたみ言葉をそのまま生きることなどしないと思うのです。
「天国に行って毎日神さまと祝宴に与っているから自分も食べたいものを食べる」。これは、神の前を生きる単純素朴な信仰者の言葉だと思いました。神の救いの出来事は、このような単純素朴さを通してもたらされるのでしょう。
それは、イエスさまが、「あなたがたは身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ」とおっしゃっておられるように、主が語られるみ言葉によって鍛錬されたあなたがたは、あなたを救うために来られる主を迎えるために、「身を起こし、頭を上げなさい」という言葉に生きているということ。
「身を起こし、頭を上げなさい」とは、今あなたが座っている所から立ち上がりなさいということ。下をばかり見ているのではない、自分の感情や暗闇、この世の合理性にばかり関心を寄せるのではなく、頭を上げて上を見なさい、神をあがめなさいということ。
この世の価値観に生きる人は、この世の中に座り込んで立ち上がろうとしません。この世の価値観を離れることは負けることだと思うからです。そして、失敗への恐れもあるから、より安定して暮らすために富や地位や名誉的なものを求めます。富や地位や名誉を求めることがそれらの奴隷になることだと気づかずに、そのただ中に生きることを当然なこととして求め続けるのです。
そういう資本主義の中の合理性の中で、キリスト者として生きることはとても難しいです。しかし、だから諦めてしまうのではなく、「身を起こし、頭を上げなさい」と勧めるイエスさまの言葉を吟味しつつ、今自分がどこに座り込んでいるのか、自分は今何を大切にしているのか、今の自分に気づくのです。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」とおっしゃったイエスさまの言葉を吟味しつつ、もしかしたら自分が滅びるものに信頼を置いて、不安な日々を過ごしていたりはしないだろうかと観察するのです。
気づかないうちに私たちは、何かの奴隷になって生きている場合が多いのです。その原因は外より自分の中にあります。
この待降節の間、その自分の内面に気づきつつ、私たち一人ひとりが、母マリアのように「はい」と言って素直に神の救いの業を身ごもり、生み出していく、大きな冒険を経て、神さまとの信頼を厚くしていく時として過ごしたいです。
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