ただ一つの善い業
2024年12月8日(日)説教
待降節第2主日
フィリピの信徒への手紙1章3~11節、ルカによる福音書3章1~6節
ただ一つの善い業
私たちは、アドベント第2主日に、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道をまっすぐにせよ。』」(4節)という言葉を聞いています。ヨハネは荒れ野でこの言葉を聞いたのでした。「荒れ野」とは、「不毛の、無人の、孤独な、荒々しい、抑制のきかない、酷い、厄介な」という言葉と同意です。そして、これらの言葉は私たちの内面に潜在しているものです。ですから荒れ野とは、私たちの内面の現実を象徴していると言えます。それゆえ、私たちが迎えているアドベントは、私たちの内面の荒れ野に花が咲き始め、変わって行くということを約束してくれるときでもあります。
私たちは、時々、生きることが虚しくなり、心は荒んで病んでしまいます。本当に親しい関係を除けば、互いが無関心で、一人にさせられる孤独の日々を過ごしています。最近、闇バイトに誘われて誤った道に入ってしまう若者が増えています。見える世界での孤立から見えない世界へ、ネット世界の闇の手につながってしまい、そこで自己の存在を確認しようとしている。このことは、若者たちの経済的・精神的な貧困をよく現わしています。日本の社会が、若者たちが夢を広げて生きる社会ではもうなくなってしまったということです。きっとこれからも、目に見えないネット世界での闇の手の働きは、その企みを増していくことでしょう。
昔の人々にとって荒れ野とは、暗闇が漂い、悪が人に手を伸ばす場所、悪魔の場所と考えられていました。今日的に言うなら、暴力、疑い、搾取、破壊というものが支配している場所のことです。実は、私たちの内面がそうであるということです。私たちが時々虚しさと孤独の中をさ迷ってしまうのはこれらに支配されているからです。そういう私たちのただ中に、「『主の道を備えよ その道をまっすぐにせよ』」との言葉が響きます。
私たちは、自分の心の荒れ野に主の道を整えなければなりません。主の道を整えるためには、先ず自分自身の荒れ野へ行かなければなりません。自分の内にある排除され、抑圧されたもの、影のようなものすべてをじっくり見つめ、そこに神が歩まれる道を備えなければなりません。まさにそこを通って神は私たちのもとへと来られるからです。神は決して私たちの成功や業績の道を通っては来られないのです。
ともすると私たちは、自分の現実から離れて、礼拝の中で敬虔になろうとし、意見が同じ人たちとの交わりにおいて神と出会おうとします。しかし、神はそこにではなく、私たちの荒れ野、つまり、私たちのどうしようもない現実のただ中、みじめで人々と上手に意見が交わせない荒々しいその私のただ中を通って神は来られます。そこで、私と一つになり、私たちの中のすべてが変わるために私と出会おうとしておられるのです。私たちが心を開いて私の暗闇の中に来られる方を迎えられたとき、その時が私にとっては完成の日と言えるのではないでしょうか。
先ほど拝読されたフィリピの信徒への手紙でパウロは、「キリスト・イエスの日」とは、裁きの日ではなく、キリストの業が完成する日であると語ります。そうして、今、私たちは全く不完全な存在だけれど、それにもかかわらずその日に向かって、既に「善い業」が始まっている。だから、それにふさわしく「あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように」(9節)とパウロは祈っています。それは、キリストの愛がその完成の日まで、一貫して一人ひとりの生活を貫かれていくから、その愛にふさわしく生きるように、とパウロはここで祈っているのです。
しかし、そのように祈るパウロ自身は獄中にいるのです。その彼の身はまったく進退窮まった状態、暗い闇の中にあると言えます。それは、このパウロだけでなく、フィリピの教会もそうです。「あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです」(30節)というように、教会もパウロと共に苦しみ、闘い続けているのです。
それゆえ、パウロは一刻も早くこの獄から解放され、教会のみんなのもとに行って、愛する教会のために働きたかった。しかも、病んで弱ってしまった自分の体、だから、彼はその苦境も救ってくださることを切に祈り続けていたことでしょう。そういう苦境のただ中で唯一の希望は、既に一つの愛が自分の中に、そして教会の中に働き始めているということ。そのことを彼は確信しているのです。どんなに困難に直面しようとも、今が暗くあろうとも、それにもかかわらず「キリスト・イエスの日」、その日に向かって福音は前進していることへの確信です。
私はパウロとフィリピの教会との関係を覗くたびに羨ましくて仕方ありません。牧者は教会を愛し、教会は牧者が置かれた苦しみを一緒に担う信頼に満ちた関係です。特にクリスマスの時期になると、自分が機械的に動いていて、アドベントをアドベントとして過ごせていない。その私のために誰かが一人でも祈ってくれて、共感してくれる一人さえいればとても大きな力になりそうです。この頃、病院の状況が以前とは変わってしまって、面会が自由にできないため入院をするととても寂しくなります。入院した経験がある方はお分かりと思いますが、そんなとき、一人でも自分のために祈ってくれる人がいることが分かるだけで、痛みや心の不安と闘う大きな力になります。
教会の一体感、もしかしたらそれは高望みと言われるかもしれません。しかし、フィリピの教会とパウロとの関係の中では成立しているのです。だからこそ気づくことは、牧会者としての自分の無力さや限界です。その自分に対して、今日のパウロの祈りは大きな慰めになりました。
ただ一つの善き業、ただ一つの愛が私たちの中で既に始まっているということ。そしてそれは、完成に向かっている確実な愛であるということ。私たちの今が孤独で苦しみの中にあるからこそ、そこで意気消沈したり、互いを疑いの目で見つめたり、互いに非難し、憎しみ合ったり、諦めたり、あるいは自分の正しさを主張し合うのではなく、各々の中にすでに始まった一つの善い業を共に仰ぎ見るということ。今日、私たちの荒れ野で、そのことが呼び掛けられているのです。
私たちは未だ不完全であるがゆえに、教会の中でさえ、とんでもない過ちが起こるかも知れません。私たちの中に善い業を始めてくださった神の愛に相応しくない姿を見せることもあるでしょう。いえ、他ならない私自身が罪に、暗闇の手に誘われて破れるのです。そのように確かに、今、現実に私が経験するもの、私の不義、過ち、破壊的な言葉、人や自分に対する落胆…ただ一つの善き業に相応しいものは、私には何一つないことを知らされます。そうです、今は暗い、私の目の前にあるのは牢獄、不自由です。苦しい闘いです。罪の底しか見えない惨めな私です。同じくパウロも、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)と嘆くように、私たちも皆自分の限界のゆえに日々嘆いています。
しかし、私たちの中ですでに善い業が始まっている。まさしく、不毛の地、荒れ野のような私の心、自己中心で、人の善意を搾取し、平気で関係を破壊してしまう厄介なその私の闇のただ中に、救い主が来られる道は整えられていくのです。この闇の中にこそ、罪のただ中にこそ、この私のもとにこそ、神は救い主の来られる道をおつくりになり、救い主を宿してくださると約束しつつ、私の暗闇の真ん中に立ち、ただ一つの善き業を成し遂げてご自分の愛を貫き通されるのです。
ですから、私たちは、困難や苦しみの中で後ろ向きになるのではなく、「深い知識とあらゆる洞察を身に着けて」「本当に重要なことを見分けられるように」なりましょう。荒れ野の状況に左右されるのではなく、主体的な人間となって、来られる救い主を迎えましょう。私たちと教会がそう変わっていくときに、地域社会の人々の闇に向かって光を発する働きを担うことができるようになります。
イエスさまは弟子たちにこうおっしゃってくださいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と。
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