シスターフット

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       2024年12月22日(日)説教

待降節第4主日

ルカによる福音書1章39~45節

シスターフット

 昨日は冬至で一年の中で夜が一番長い日でした。皆さんは、夜が長くなった分だけ寝られましたか。夜が長い分長く寝られたらいいと思いますが、真夜中に目が覚めてしまい、辛い夜を過ごされる方もおられると思います。暗闇が、いかに人の心を蝕み、孤立させていくのかわかりません。被害妄想や憎しみをどんどん倍増させてゆく、それが闇の力です。

 ですから、世界の多くの国々では、闇が一番深いときに太陽を祭るようなお祭りが行われました。キリスト教の始まりのときのローマでも太陽神祭りが12月25日に行われていました。ですから、ローマのキリスト者たちは、イエス・キリストの誕生日をその日に定めたのです。真の光が闇の中に宿り、暗闇の中の民を照らし、主の民が光の中を歩めるように導いてくださる。それが、まさに救い主がお生まれになったクリスマスなのです。そして、長い歴史の中で、教会は、そのクリスマスメッセージを、繰り返し伝えてきました。私たちの教会もその役割を担い、まさに、今がそのときです。

 そこで大切なことですが、暗闇の中にいる主の民に光を届ける働きは、一人ではできないということです。一緒に働く仲間が、必ず必要です。

 私は、皆さまの所をお訪ねするとき、一人ではいかず、待っておられる方が、以前親しくしておられた方と一緒に行くようにしています。牧師と一緒に働くのは役員だけではなく、みなさまなのです。色々の都合で教会に来られない、けれども仲間には会いたい、その方の気持ちを大切にしたいのです。そしてそれは、聖書がそう示していることでもあります。

 天使ガブリエルから、聖霊によって身ごもったことを告げられたマリアは、今日、エリザベトを訪ねています。エリザベトとマリアは従妹関係でした。マリアは、天使とのやり取りの中で、「はい、私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えたものの、きっと、15歳の少女の心に広がる不安を抑えることはできなかった。それでマリアは、天使のお告げの中で、「あなたの親類エリザベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことはない。」と言われた、その神の可能性を確認しようと、エリザベトのいる山里へ向かいました。

 そして、歳を取ってから身ごもったエリザベト。そのお連れ合いはザカリアです。この老夫婦は子どもがないまま歳を取ってしまいました。エリザベトは親戚や周りに対して、きっと小さくなって生きていたのでしょう。女は子を産んでこそ、男の子を産んで初めてその役割を果たしたと考えられていた時代ですから、子どもができない原因が男性側にあったとしても、医学的に調べられる時代でもなかったため、産めない責任を女性側が担わなければなりませんでした。

 聖書は、エルザベトのことを「不妊の女」と記しています。その彼女に、聖霊の介入によって子どもができたのでした。しかも、男の子で、その名はヨハネ、洗礼者ヨハネのことです。どんなにうれしかったことでしょう。旧約聖書のサラとアブラハムのように、エリザベトとザカリアは、人間的にはもう老年、産み出すような年齢ではないのです。しかし彼らは、神さまの可能性の中に包まれるようになりました。奇跡です。ですから、その喜びは大きく、エリザベトはマリアにその喜びを現しています。

 エリザベトは訪ねてきたマリアを迎え、マリアを祝福しながら言います。「あなたは女の中で祝福された方です。体内のお子さまも祝福されています。私の主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、体内の子が喜び踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(42~45)。

 自分よりずっと若いマリアを前にして、マリアからすれば敬うべき年老いた親戚の一人です。なのに、その述べる言葉がとても謙遜です。「私の主のお母さまが私のところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と。エリザベトはマリアより六か月も先に主の恵みに与っています。それなのに、エリザベトはマリアのことを「私の主の母」と言って、マリアのことを敬っています。

 エリザベトも、マリアも、聖霊によって身ごもっています。神の可能性、奇跡は聖霊によって起こされるのでした。つまり、聖霊の働きの中にいるときに、人は謙虚になり、自分の立場、今自分がどこにいるのか、何をするべきで、何を言うべきかの見極めがつく。そして相手の賜物も大切にできるようになります。

 エリザベトは自分の立場をちゃんと見極めています。自分のお腹の子が来るべき救い主メシアではなく、メシアの道を準備するために宿った者であるということ。そして、マリアのお腹の中の子こそがメシアであり、全人類の救い主であると。この世的な血筋や年齢では自分が上だけれども、神さまの可能性の中では、上下関係ではなく、賜物によって生かされるということです。こういう識別ができたときに初めて、真の光は暗闇の中で待っている人々の所へ届けられるということです。

 これがクリスマスの始まりなのですが、このエリザベトとマリアのフットワークがなかったら、聖書はどのように書かれたのだろうと思うのです。この二人のシスターフットの中で、来るべきメシアの道が整えられ、そして、救い主がその道を通して生まれたのです。神にできないことはないという偉大な可能性を成就させたのは、この二人の女性でした。ですから、母マリアは、最初から偉かったのではなく、エリザベトのような信仰の先輩がいて、そこで大きな慰めをいただいて、すべては神さまから与えられ、神さまに導かれるという信仰に立つことができたのです。ですから彼女は、最後まで主の母としての役割を果たせたのではないでしょうか。

 シスターフット。一人ではできないことが、二人だとできるようになる。赤信号をみんなで渡れば怖くないというようなことではありませんが、聖書の中には、エリザベトとマリアのようにフットワークを合わせて働いた女性たちが多くいます。

 ルカ福音書だけを見てみても大勢います。8章には、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリア、ヘロデの家令のヨハナ、スサンナ、そのほかの女性たちがいます。彼女たちは、自分の持ち物を出し合ってイエスさまご一行に仕えました(2~3節)。

 23章には、イエスさまが十字架を背負ってゴルゴタの丘を歩かれるのを見て悲しむ女性たちがいます(27~28節)。それだけイエスさまと親しくしていた女性たちです。その女性たちに向かって、十字架を背負っておられたイエスさまがこう述べられます。「エルサレムの女性たち、私のために泣くな。自分と自分の子どもたちのために泣きなさい」と。 23章のもう一か所には、ガリラヤからイエスさまに従ってきて、イエスさまの十字架刑を見届けている女性たちがいます(49節)。彼女たちは、イエスさまが十字架から降ろされてお墓の中に納められる様子を見届けています(55~56節)。

 そして、復活の朝、イエスさまのご遺体に香料を塗るためにお墓を訪れ、墓が空っぽになったのを見届け、男の弟子たちに伝えている女性たちがいます。その女性たちの名前は、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、他に多数います(24:1-12)。

 こうして、大勢の女性たちがイエスさまの働きに仕えています。生まれるときから十字架の死を成し遂げられるまで、イエスさまが死んで復活した後の最初期の教会の中で、具体的な働きを担っている女性たちがいます。支えるべき人を支え、リーダーシップをとれるものはその役割を果たし、賜物に応じて歩幅を合わせて、神さまを現していく。独りよがりの働き方ではなく、力を合わせて、互いを尊重しながら大きなことを成し遂げています。聖霊の働きに身を委ね、私の都合、私の考え方ではなく、神さまが何を求めておられるのか、イエスさまだったらどうなさるのだろうと考え、女性たちは賢明に仕える働きに遣わされていたのでした。つまり、人を孤立させる暗闇の中に輝く光を証しする福音宣教のために、救い主イエスさまの道にフットワークを合わせたのでした。

 その延長線上に私たちの教会があります。私たちは男性でも女性でも、その働きに招かれてここにいるのです。

 そして今日、吉田陽子さんが洗礼を受ける決心をして御前に進み出ました。聖書の女性たちのように、この教会のみんなとフットワークを合わせて、福音宣教に仕えるためにその一方を踏み出そうとしています。

 そうなのです。教会は、「私」個人という世界から、「私たち」の世界を生きるところなのです。エリザベトとマリアのシスターフットが証してくれるように、吉田さんもこれからシスターフットを生きるようになります。ですから、洗礼を受けると言うのは、いろいろ学んできたことのゴールではなく、新し始まりになるのです。そしてその新しい始まりは祝福されています。

 神さまの可能性を信じて歩み出しましょう。教会の皆さんと一緒に、福音宣教にフットワークを合わせる日々の始まり。そこには、「歳を取ったから」とか、「結婚を間近に控えているから」とかの理由は、エリザベトとマリアを見ても、神の可能性を蔑ろにする理由にはなりません。シスターフットがテーマだから、ブラザーフットは疎外されたというのも理由になりません。

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