雪が降りました、すべてが無罪です

Home » 雪が降りました、すべてが無罪です
860

2024年12月24日(火) 説教

クリスマスキャンドルサービス

ルカによる福音書2章1~14節

雪が降りました、すべてが無罪です

 「雪が降りました。すべてが無罪です」。

 今日がホワイトクリスマスだったらどんなにいいのだろうという思いを込めて、雪に関する詩の一説をお読みました。皆さんもそうだったと思いますが、私も小さい頃からホワイトクリスマスを迎えるのが憧れでした。生まれ育ったところが、雪が少ないところだったからそう思っていたのだと思います。

 北海道に数年暮らしたことがあり、そこでは11月から雪が降り始めます。特に願わなくても毎年ホワイトクリスマスです。同じ日本でも、クリスマスの迎え方が異なります。特に今年の冬は雪どころか雨も降らないので乾燥注意報が出されているくらいです。そうなるとますます雪が恋しくなって、先日、ある方と賭け事をしてしまいました。鵠沼に雪が降るか降らないか。私は降る方にかけたのですが、皆さんはどう思いますか

 「雪が降りました、すべてが無罪です」。この詩の一節は、雪が降ると世界が真っ白になるので、罪のある人もない人も区別なく、すべてが無罪というのです。

 そうは言っても、私たちの脳の裏では、あの人この人だけには雪など降らないでほしい、降らないだろうと、思い出せる人々がいます。ロシアのあの人、イスラエルのあの人、ミャンマのあの人、北朝鮮、韓国、他にもたくさんいます。この人たちは、今年、世界を黒色で塗った人たちです。

 この人たちの誤った思想と欲望に武器が使われ、多くの人たちの命が犠牲になり、体と心が傷を負い、世界の経済が乱れてきました。それによって、特に経済的に貧しい人たちの生活がとても厳しくなりました。家を失い、家族を失い、仕事を失って、明日への希望がまったくなくなった多くの人が悲惨な状況のただ中に追いやられました。

 昨年10月より始まったイスラエルとハマスの戦争によって、ガザ地区だけで、約190万人の難民が出ました。藤沢市の人口が、今年の1月で約44万5千人と統計が出ていますが、その約4倍にあたる人たちが難民となったのです。故郷を追われ、国を追われた彼らは、どこで、誰に受け入れられて、再び生きる希望を見出すことが出来るのでしょうか。日本は難民を受け入れる扉が、ほとんど開かれていないと言えるくらい、難民に対しては厳しい国です。

 先ほど拝読された福音書には、ヨセフが言い名づけのマリアを連れて、自分のふるさとであるベツレヘムへ旅をしている記事がありました。それは、住民登録をするためでした。いい名づけのマリアはお腹が大きく、臨月を迎えていました。ですから、長旅をする状況ではありません。しかし、神のように崇拝されていたローマ皇帝の勅令ですから逆らえない。無理をしてでも住民登録のために旅に出なければなりません。案の定、ベツレヘムにいる間、マリアはお産を迎えます。しかし、お産の場所は家畜小屋でした。聖書にはこう記されています。「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と。人間が泊まる宿屋には彼らの泊まる所がなかったからだと。それはもちろん、全国の人々が一斉に動いていますから、すべての宿屋が満室だったとも考えられます。

 しかし聖書は、「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」と記しています。このニュアンスは、部屋がなかったのではなく、彼らの泊まる所がない、彼らは拒絶されたということです。ガリラヤのナザレからベツレヘムまで、長旅の末にたどりついたふるさとです。ベツレヘムはヨセフのふるさとですから、遠い親戚がどちらかには住んでいるかもしれない。そこに彼らの泊まる場所はなかった。それは、誰からも歓迎されていないという、厳しい状況を表しています。

 ですから、「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」とは、特に今年、多くの難民が生み出されている世界、そのただ中に生きる私たちに大きなことを示唆しているみ言葉です。

 今日は24日、救い主のご降誕の日です。今日までの4週間を私たちは、待降節として過ごしてきました。救い主のお生まれを待ち望みつつ、迎える場所を用意してきました。自分の内面の暗闇を照らす光を迎える準備をしたのです。来るべき救い主が暗い道を迷わずに、まっすぐに私の所に来てくださるように、家の中や外にツリーやリースを飾りました。昔は窓際に蝋燭をおいていましたが、今はイルミネーションできれいに飾っています。

 私たちの教会も明かりをつけました。幼稚園の駐輪場には可愛いトナカイの家族を置いてあります。夜になると、わざわざ見に来るご家族もいらっしゃいます。見に来た子どもたちのトナカイに対する反応がそれぞれですが、私には猫の家族のように見えたりもします。子どもたちのそれぞれの見え方でいいと思います。

 昔イスラエルでは、夜、旅人が道を迷わないために窓際に蝋燭を灯していました。時には、真夜中に訪ねてきた旅人を泊めるときもあります。窓際に蝋燭を灯しておくという行為は、私たちの家の扉はあなたのために開いていますというシグナルのようなものです。パレスチナの夜は厳しく、野獣にやられる危険もありましたので、夜の野宿は考えられません。

 そのように、まったく知らない人に対しても自分の家の扉を開いておけるその余裕と信頼関係がどこでどうやって崩されたのでしょうか。イスラエルは、今、一番、難民を産み出している国になったのです。

 日本は、今、戦争をしていませんが、知らない人を真夜中に家に迎え入れることは考えられません。闇バイトに雇われた人なのかもしれない人を受け入れて、命まで奪われる、そういう社会になってしまいました。つまり、私たち一人ひとりの中の闇はますます深まるばかりで、闇を照らしてくれる明かり的な存在が欠如した中を私たちは暮らしています。表面的には安定して暮らしているようで、内面の深いところでは暗闇の中をさ迷っている難民なのです。

 ですから、そのただ中に生きる私たちにとって、「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」という言葉は、とても大切なメッセージになります。

 つまり、今宵、私たちがお生まれをお祝いしているその方、救い主、イエス・キリストも、先祖のふるさとでは人々に受け入れられず、拒絶され、家畜小屋で産声を上げたということ。ですから、救い主イエスさまは、難民となって暗闇の中をさ迷っている人が味わっている悲しみや寂しさ、孤独、生きることへの幻滅感をよく知っていてくださるということ。だから、この私が暗闇の中で、野獣たちのようなものにやられて、滅びてしまわないように、ご自分の光を私の歩く道に照らしてくださっているということ。そのためにお生まれになったということです。

 先ほど申しました、「雪が降りました、すべてが無罪です」というように、救い主イエス・キリストは、ご自分の愛をもって、雪のようにすべての人の尖ったところを覆ってくださいます。傷を癒してくださいます。何度人を傷つけたか、何回失敗したのかと数えるのではなく、よく厳しい道のりを歩いて来られたね、そんなにいきんで威張らなくてもいいと、優しく、私たちの渇きを癒してくださいます。

 この優しいお方が、ベツレヘムの馬小屋で生まれました。私たちの心の扉を、この方を迎え入れるために開きましょう。そして、「雪が降りました、すべてが無罪です」というように、私を傷つけたあの人もこの人も、みんなに無罪を宣言するのです。そうすることによって、私の弱さや醜さをも真っ白になって、ゆるされてゆくからです。

 この時間も、世界のどこかでは人が人に向かって銃を向け、人を殺す計画をし、どうすれば隣の国の領土を手に入れられるかと試行錯誤している人たちがいることでしょう。力のない幼子を虐待し、自分が産んだ子どもを平気で殺すような人もいます。それは、その人自身がもともと悪魔のように悪い人だからなのではなく、その人も、誰かの暖かいまなざしの中に受け入れられて、愛されているという感動を人生に一度でも味わっていたならば、きっと、人の命を大切にできる道を生きていたのでしょう。

 あの人もこの人も、そして私たちも、今宵は救い主イエス・キリストの愛の中に招かれています。そして、「雪が降りました、すべてが無罪です」という祝福をいただいています。私たちの心の大地に、真っ白な雪が降りました。イエス・キリストの愛をいただいたのです。その愛を、未だ暗闇の中をさ迷っている隣人と分かち合いましょう。

Youtubeもご視聴下さい。

説教は12:45から、子ども讃美歌 69番 かいばおけに 、子どもたちへのメッセージ 、ハンドベル FUGHETTA(J.S.Bach)

カテゴリー