決まった頃、決まった所に
2024年12月29日(日) 説教 <音楽礼拝>
降誕節第1主日
ルカによる福音書2章41~52節
決まった頃、決まった所に
「平和を造る人々は幸いである」という御言葉のもとで始まった教会の一年の歩みが、今日で最後の主日を迎えました。皆さんは、この一年、教会の宣教テーマであるこの御言葉とどのように歩んで来られましたか。礼拝に与ったときにはその都度見ているはずですが、「壁に掛けられたもの」以上の意味を見出すことなく、眺めるくらいの歩み方をしてきたのではないだろうか。私自身、忘れていた日々の方が多いです。
しかし、今回、クリスマスとお葬式の準備を同時にしながら、「平和を造る人々は幸いである」、この言葉に私自身生かされました。この御言葉にどう生きるかではなく、一日の自分の在り方によってこの御言葉に生かされるという体験をしました。本当に時間が足りなかったのですが、時間がないからこそ、人は時間の使い方を大切にして行きます。当たり前のことを言っているのかもしれません。しかし、今までも忙しくしていましたが、ある程度時間の余裕はあったのでしょう。ですから、祈ろうとすればいつでも座って祈れる、聖書を読もうとすればいつでも読める、やろうとすればいつでもできるという甘えの構造があったことに気づかされました。しかし今回、時間がないということで、ときを細かく刻んで使うようにしていると、自然に自分がピーンと正されるのです。寝る時間をきちんと守り、起きるべき時間に起きる。朝日が昇るのを待ちながら蝋燭を付けて座って祈る。それから、寒いから怠っていた海岸でのジョギングをし(半分は歩いているのですが)、朝ご飯は簡単にとる。時間が取られているようで、その後の時間を忠実に使えたのです。疲れが残りましたが、だらだらと仕事をしていたときの疲れ方ではありません。
外からの制限が厳しかったから、内面の自由を生きることができました。強いられた恵みのように始めましたが、昼間が短い冬の一日を長く使えることができました。そして、何より、心に平和が戻ってきました。これを通して、私は、外からの刺激がなければ、自分自ら平和を造る生き方はできない者だと気づきました。やはり皆さまがいらっしゃること、一緒に同じ道を歩いている仲間がいるということに気づかされ、励まされ、感謝したときでした。
使徒パウロはコロサイの信徒への手紙の中でこのように述べています。
「キリストの平和があなたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」(3:15)と。
パウロは、私たち一人ひとりのことを、「平和のために招かれた者」と述べています。神の祝福をいただくためにとか、福音を述べ伝えるためにとかではなく、平和のために招かれた者と。つまりそれは、平和が、すべてのことの基本であるということでしょう。その人の中に平和がなければ、神からの祝福が与えられても識別ができず、気づきません。平和のない中での福音宣教も難しいのです。そのことが、先ほど拝読された福音書によく表されています。
イエスさまは、もう大きくなって12歳になりました。過ぎ越し祭のときには、聖家族は、毎年エルサレムへ上っていました。イエスが12歳のとき、祭りが終わって帰るとき、イエスはエルサレムに残りますが、マリアとヨセフはそれに気づかず、一日分の道のりを進んでやっとイエスが自分たちと一緒ではないことに気づきます。それから三日後に、神殿の境内で教師たちの真ん中に座って、教師たちの話を聞いたり質問したりしているイエスを見つけます。
そのときマリアがこう言います。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して探していたのです」(18節)。
三日も探しのですから、どんなに心配していたのかよくわかります。私も、子どもがまだ3歳ごろ、川崎駅の駅ビルの中で迷子になって、30分くらい探しまわった経験があります。傍にいたはずなのにあっという間に見えなくなって、たったの30分ですが、探し回りながら頭の中ではいろいろなことを想像しました。誰かに連れていかれてしまったのではないか、永遠に会えないのではないかなど。ところが、一緒にいた元の場所に戻ってみると、雑貨屋のおじさんの膝の上に座ってお菓子をもらっていたのです。見つかって嬉しい気持ちと、自分がどんなに心配して探したのかを訴えました。
イエスはそう言うマリアに向かってこう答えます。
「どうして私を探したのですか。私が自分の父の家にいるはずだと言うことを、知らなかったのですか」と。
「イエスが自分の父の家にいる」。このことが今日のお話の中心ですが、イエスはどんな時も父の家から離れません。それは、父の家をエルサレム神殿、神殿の中の境内という建物と理解してしまうとずれが生じますが、そうではなく、神さまの中にいるということです。
ヨハネによる福音書14章でおっしゃるように、「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」《10節》という問いかけと同じことばなのです。ご自分が十字架の死を迎えられた大変な状況の中にいても、イエスさまは神さまから離れることなく、常に一緒でした。
このイエスさまの名前が、他の言葉では「平和の君」と呼ばれます。イザヤ9章ではこのように書かれています。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と呼ばれる」《5節》。そうなのです。イエスは平和そのもので、全て命あるものの平和を司る方なのです。
ですから、パウロが述べている、「キリストの平和があなたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」を、「イエスがあなたの心を支配するようにしなさい。このイエスのために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」というふうに言い換えることもできるでしょう。
そのイエスがいなくなったとき、マリアは不安になり、道にさ迷い、欲望の支配下に生きる普通の人と同じく、自己中心的な感情を現しています。迷子になったのはイエスではなく、マリアの方です。イエスが一緒にいてこそ、マリアは主の母の場に立つことができ、人々に慰めを与えられる女性となれるのです。マリア一人では、自分の内面の平和さえ司ることができないということです。
私たちもそうです。疲れたときには心身の安らぎを求めて旅行に出かけたり、趣味活動をしたり、おいしいものを食べたり、良く眠るようにしたりして疲れを癒そうとします。そうやって心のゆとりを取り戻していれば、一時的には落ち着きます。しかし、心にゆとりができても、自分にとって都合の悪いことが起きれば、その落ち着きはあっという間に吹っ飛んでしまいます。内面の深い所にまで休めていないからです。
その内面の深いところの平和を司る方、平和の君でおられるイエスを迎える、イエスを見出し、イエスとの交わりを深めていく。そのほかに私たちの疲れた心と魂を癒してくれるものはありません。イエスなしの私たちは常に迷子状態になっているのです。
ヨハネによる福音書14章の続きでイエスさまはこのように述べておられます。
「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」《20節》と。
このかの日を私たちが日々生きるものでありますように。イエスと一つになれば、内面の深いところに平和が広がります。それによって、この一年の中で、この私に神さまが与えられた祝福に気づき、感謝することが出来るようになります。感謝をもって古い年を送り、新しく迎える年には、福音を携えて遣わされる日々を一緒に過ごしましょう。
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