別の道

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2025年1月5日(日) 説教

主の顕現主日

マタイによる福音書2章1~12節

別の道

 新年、おめでとうございます。今年は蛇年、「巳年」と呼ばれる年です。巳年のことを調べたら、次のような意味が書かれていました。家族が平和になる、新しい自分に生まれ変わる、幸せな未来をつかむ、復活と再生、実を結ぶ、知性を象徴するなど、たくさんの意味がありました。それに、「巳」という漢字は胎児の形から派生しており、中国では「草木が成長した状態」を表すそうです。また、蛇が冬眠から目覚め、地上に現れる姿を表しているとも言われるそうです。

 聖書も、新しく生まれる再生や復活、実を結ぶ、平和を教えています。そして、創世記3章には、知性を象徴する蛇の姿が描かれています。昔、蛇は、神に対抗し、神の戒めから人間を切り離すことが出来るくらいの力をもっていると考えられていました。それで、蛇のように知性が豊かになりたい、再生する命を得たい、つまり、長生きしたい。エジプトの王ファラオの帽子には蛇が刻まれていました。それくらいですから、エヴァとアダムを神の戒めから切り離すために蛇が用いられたのです。

 私は個人的に蛇が苦手ですが、巳年が含んでいる意味を見ると、今年は、その苦手さを和らげるための術を身に着けてみようと思います。

 さて、今日は主の顕現主日です。

 東方の博士たちが、救い主の星を見つけて拝むために、はるばると東の国からベツレヘムのイエスさまを訪ねて来ました。まず彼らが訪れたのはヘロデ大王の宮殿でした。そしてヘロデ大王に聞きます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と。なぜ異国人が、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を知っていて、求めて旅をしてきたのでしょうか?「ユダヤ人の王」という名が特別な意味で呼ばれるとき、救い主・メシアを指します。彼らが、「ユダヤ人の王」という名前を知っていて、求めて来たということは、彼らはイスラエルの民が待望していたメシアを知っていて、メシアを待ち望んでいたということを表しています。詳しくはダニエル書に記されていますが、紀元前6世紀の「バビロン捕囚」の時代、バビロンの王も知者たちも、ユダヤ人から強烈な影響を受けます。ダニエルたちを通して、バビロンの王も、知者・賢者たちも、ユダヤ人が信じる神が真の神だと認め、ユダヤ人の神と信仰について熱心に学び、聖書の預言にも精通するようになります。
それで、東方の博士たちは代々、天のあらゆる現象を熱心に観察し、ついにあの夜、メシア誕生のしるしをキャッチしました。ユダヤ人の王として生まれたメシアは、エルサレムのヘロデ大王の宮殿にいるだろうと思い、贈り物を携えてヘロデ王を訪ねたのです。彼らの訪問を受けてヘロデは不安を抱き、エルサレムの人々も皆同様でした。どうしてヘロデ大王が脅かされるのか。ヘロデ家は、王位継承の正統な系図ではなかったからです。ヘロデは、国の治世が不安定だったときに横から王座を奪い取って王になったのです。ですから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」というお尋ねに、居ても立っても居られず、祭司長や律法学者たちを集め、「メシアはどこで生まれることになっているのか」と調べさせます。そして、その預言が、確かに実現したことを、訪れた博士たちを通して知ったとき、王は、ひどい不安に襲われたのでした。そして結局、学者たちが帰った後、ヘロデ大王は、その不安を取り除こうと、「ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残さず殺した」のでした。罪のない幼子たちが、一人の権力者の不安を取り除くための道具として命を捧げたのです。

 さて、博士たちを導いて来た星は、ついに幼子のいる場所の上に止まり、学者たちはその家に入り、ひれ伏して幼子イエスさまを拝みます。そして、「黄金、乳香、没薬」を贈り物として献げました。聖家族はもう馬小屋ではなく家の中にいます。生まれてから時が経っています。ですから、東方教会のギリシャ正教会やロシア正教会のクリスマスは、1月6日です。今、ロシアとウクライナの戦争が続く中、東方教会は「平和の君」としてお生まれになった救い主の誕生をどのように伝え、祝っているのでしょうか。

 博士たちは「ヘロデのところへ帰るな」と夢でのお告げを受けて「別の道を通って」帰って行きました。「別の道を通って」帰る。来るときは占った星の導きのもとにありました。帰るときは神の言葉に導かれています。一生涯を、星を占って生きて来た人たちです。それが生計を営む手段ですから、きっとこれからも星を占うことは続けることでしょう。その彼らが、御言葉によって示された異なる道、新しい道を歩くようになったということ。救い主に出会って示される「別の道」とは、一度も歩いたことのない新しい道です。

 羊飼いたちもイエスさまに出会って帰って行くとき、別の道を辿りました。それは、神を崇め、賛美しながら歩く道です(ルカ2:20)。一生涯を失望と虚しさの中を生きていた彼らに、神を崇め、賛美することは一度もなかったのかもしれません。しかし、救い主に出会ってから歩む道では喜びが溢れたのでした。つまりそれは、今までは右か左か、上か下か、私かあなたかというような、バラバラで、片面だけを見て物事を判断し、それが全てだと信じて生きて来た、その道から、上も下もなく、右も左もない、私とあなたの境界線などなく一つであるという、全体を見る目が開かれた。神さまの視点から物事を見るようになったのでした。

私は18歳のネコと暮らしていますが、時々彼女から深いことを学ばされます。彼女は私の人生の教師だと思って感謝しています。先日、隣の家の屋根の上に烏が来て止まりました。それを猫に見せようと、指さして「ほら、友達が来ているよ」というと、猫は私の指ばかり見て烏のことには気づきません。仕方なく顔を烏がいる所に向けさせると、一瞬、体が緊張状態になって興味津々な目で烏を眺めます。そのとき気づいたのです。これが私の今の姿なのだと。どんなに時が経っても自分の感覚の中で物事を考えて判断し、自分の正しさの中でものごとを受け止めて批判をもし、決してそこから抜け出ようとすることなく生きている自分に気づきました。つまり、神さまを信じていると言いながら、実は、神さまがお造りになった被造物に対する信仰に過ぎない、それを信仰と受け止めていたのです。好きな人、安心できる住居、それらしき見解、大好きな月や星、大自然界が私の信仰の対象になっている、安っぽい信仰、猫はその私のことを気づかせてくれたのでした。

 全体を見る目が開かれるということ。使徒言行録7章にはステファノの説教が記されていますが、その中でイザヤの預言が引用されています。

「主は言われる。天は私の玉座、地は私の足台。あなたがたは私のためにどんな家を建てるというのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらすべて私の手が造ったものではないか」(使徒7:49-50)。

 いつの時代の人も変わらない。神を信じ、神のための、神に対する信仰とは言うものの、結局、自分の感覚を頼りにした生き方の中に留まっているという指摘の御言葉です。羊飼いたちも、博士たちもそう生きていました。私たちも同じです。しかし、今日、救い主に出会って帰る博士たちは全体を見る目が開かれました。星ではなく、それを造られた主、神を見つめる目が開かれたのです。

 事実、博士たちを導いた星は、幼子がいる家の上で止まってその役目を終えました。人が持っている知識もそこまでです。自然界も人間もこの世の知識も知恵も限界があります。私たちも多くの限界を持っています。さらには変わります。月や星、空や海、大自然界、神さまに造られた被造物のすべてには限界があり、色褪せ、変わります。拝む対象にはなりません。ですから、それらが変わることに、それらの限界を見つけるたびに嘆いたり、苦しんだりする必要もありません。

 博士たちの辿る道を、私たちも続いて歩みたいです。御言葉に導かれる日々、一度も味わったことのない喜びがあふれる日々を過ごしたい。私たちは御言葉を通してのみ神さまと交わり、私たちの内面のあらゆるトラブルが明らかにされ、光の道へ導かれます。御言葉の中に全体を見る目があります。

 さあ、巳年が明けました。蛇のように賢く、ときには鳩のように素直になって、今年は今まで歩いたことのない別の道を辿って神さまに近づいていきましょう。みなさまの歩まれる道々に、喜びと豊かな実りがありますようにお祈りいたします。

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