恐れるな、私はあなたと共にいる。

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2025年1月12日(日) 説教

主の洗礼日

ルカによる福音書3章15~17節、21~22節

別の道

 年が明けてバタバタと信仰の先輩たちが御許に召されました。歳を取るということは、弱ってくる体と付き合うことかと思います。出来ていたことが出来なくなる、使えていた体の機能が衰えてくる。目も耳も鈍くなって助ける道具が必要になる。

 私事を申しますと、つい2~3年前までは、走りながらしていた仕事が、今は、歩きながらでやっと仕事に追いつくような感じです。2~3年後には這いずりながらしなければならなくなるかもしれない。ですから、私たちにとって、今が、人生の中で一番若いときですね。今を感謝しなければなりません。

 さて、今日は主の洗礼日です。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。洗礼には罪を洗い流すと言う意味が含まれています。イエスさまはその罪人の列に並んで洗礼を受けてくださいました。それは、イエスさまも私たちと変わらず、身体を持った人間として生まれ、寿命という時間の限界をもち、転んでけがをすれば血を流し、食べたり飲んだり、悲しいことには涙を流し、不正なことの前では怒りを現し、心と体が傷つけば苦しまれ、神さまに祈らなければ果たされた使命を全うすることができない、私たちと変わらない人であることを現わしています。

 そのイエスさまのことを、今日、パプテスマのヨハネは、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3:16)と紹介をしています。

 つまり、洗礼には、水の洗礼だけしかないのではないということを表しています。水の洗礼を受けてそれで満足しないで、聖霊が注ぐ洗礼をも受けるべきだということです。聖霊に関してルーテル教会はかなり消極的な向き合い方をしています。いつまでも消極的な姿勢でいますと、神理解や人間理解、救いに対する理解、そして、御言葉の読み方に対しても頭で理解する以上のことはできなくなります。

 ですから、積極的に自分の生活の中に祈りの時間を設け、聖霊の導きによって生かされるという、信仰者としての歩み方を身に付けなければなりません。祈るということは、頭で生きることを止め、体で生き始めることを意味します。そうしていると、赦せなかった人が赦せるようになり、自分に対して大きな過ちを犯した人に対して、その人の立場に立って考えるようになります。神さまの憐みをもって人と向き合うことが出来るようになるのです。聖霊は、人間の限界の中で不可能と思っていることを可能にする働きをします。神に不可能はないということはそういうことなのです。

 祈るということは、立ち留まるということです。留まらなければ見えてこないことがあるのです。いつも車で走っていた道を歩いてみると、車で走っていたときには見えなかった風景がそこにあったことに気づきます。小さなお店や道端に咲いている草花などは、車で走っているときは見えません。

 この頃、私は、御許に召された皆様のおかげで留まる時間ができました。本当に大切なスケジュール以外はストップされ、式のすべてが終わるまで、召された方を中心に動きます。そしてこのときは私にとって祈りのときです。数日前まで一緒に礼拝に与り食卓を囲んだ方がこの世ではもう二度と触れ合うことが出来なくなったのです。不思議と思いませんか。命って何だろう。死ぬるってどんなことなのでしょうかと神さまに問いかけるのです。今まで何十回も召された方の死に立ち会ってきましたが、このことに関しては決して慣れません。

 皆さんはいかがですか。教会の仲間の死、それは家族の死です。そしてそれは、私の死でもあるのです。同じ教会の家族とされ、一つの食卓から飲んで食べ、一緒に奉仕をして聖書を学び、共に悩み、共に交わりをしていた、私の中に先に逝かれた仲間への思いでもあれば、仲間の中にも私への思い出がたくさんあるのです。その数々の思い出をもって死んでくださった、それは、もう一人の私の死でもあるのです。今ここにいる自分だけが私ではなく、出会っているみんなと時と思いとあらゆるものを分け合って生きる一人としてここにいるのです。これが、聖霊が教える人間理解です。

 ですから、亡くなった仲間と交わっていたときが少し昔のことだとしても、仲間の死の前で、自分のスケジュールをいったん止めて、留まるのは当然ではないのでしょうか。出会うという始まりがあったのですから、別れるという終わりのときも大切なのです。イエス・キリストの洗礼によってゆるされていた尊い交わりに感謝する時として過ごすのが礼儀だと思うのです。そしてご都合がゆるされるなら、送り出す式に出席して、ご遺族を慰めることが残された者の役割ではないでしょうか。

 一つの場所に留まり、静まる、そこに聖霊の導きがあります。一か所に留まって心の静けさを取り戻してみると、いろいろの気づきが与えられます。体の微細な叫びにも気づくようになります。そして、聖書の読み方も変わってきます。

 たとえば、先ほど交読された詩編29篇、そこにはこのような言葉がありました。「主は洪水の上にみ座をおく」と。この詩編は木曜日から聖書日課に載っていたものですが、しかし、すぐ理解できるような言葉ではありません。その時、私は、良子さんの葬儀の予定が入っていて、体調も優れていない中、松島さんが召されたというお知らせがありました。他にもルーテル学院大学の授業やルターハウス、会員総会の準備などたくさんのスケジュールがありました。その最中、「主は洪水の上にみ座をおく」というこの詩編の言葉を聞いたのです。

 洪水は圧倒的な力で人を脅かすものです。ノアの洪水以降、神さまは洪水によって人類を滅ぼすことはしないと約束されましたが、人の身勝手な環境汚染によって、世界のあちらこちらで大洪水は起きていて、大勢の人が被害に遭っています。他にも、洪水のように私たちを襲ってくる様々なこと。その中の一番恐ろしいのは死です。死への恐れはほかの何よりも大きく、洪水のように私たちを脅かしてきます。

 さらには、信仰の先輩たちの死の知らせに具合も悪い中、本当に自分にこれらの働きができるかと思ったとき、「主は洪水の上にみ座をおく」との声。このとき思ったのです。この言葉は、神さまが聖霊を送ってご遺族の方々を慰めてくださるとの約束である、と。突然の悲しい出来事に途方に暮れているご遺族の皆さまの悲しみの上に主がいてくださるのだと。

 そして、私に対しても、主は、恐れることはない。私があなたと共にいる、死に打ち勝った方が、あなたを脅かすあらゆるものの上にみ座を置いておられる。しかも、とこしえに。どんなに慰められたのかわかりません。

 これが、洗礼の恵みなのです。私たちが洗礼を受けていなければ、誰が私の恐れや不安、思い患いに積極的に関わって、その上に座してくださり、それらの災いと私をかばいながら戦ってくださるでしょうか。

 「主は洪水の上にみ座をおく」。この御言葉に慰められながら、私は、信仰の先輩たちの最期を自分がお手伝いできることに感謝しました。一度もお会いしたこともなければ、お会いしているとしてもほんのわずかなときでした。なのに、生き抜いて来られた全生涯が神さまに帰って行く、その終わりのときをお手伝いできるということ。それは、こんな私で申し訳ありませんという身を慎む思いと、こんな自分が用いられると言う喜びが混じったときでもあります。

 そして思うことは、もし私が洗礼を受けて神さまにつながった生き方をしていなかったらと考えると、洗礼を通して導かれた神さまの御働きがどんなに素晴らしいかということを知らされました。私と皆様との出会いは、主イエス・キリストの洗礼に預かったことを通して果たされたのです。ですから、洗礼を受けるということは、私が救われてキリスト者になるというような単純なことを遥かに超えて、イエスさまの洗礼に預かった世界のキリスト者たちとつながって、家族の一員となって、具体的には、鵠沼めぐみルーテル教会の中で信徒の交わりに生かされるということです。

 洗礼を受けた私たちには、み恵みに生きる権利が与えられたのです。その権利をよりよく生かしていくためにも、留まるべきところで留まることを知り、イエス・キリストが施す聖霊の洗礼にも預かりながら、神さまの奥義を知らされて感謝する日々を過ごしたいです。頭の世界から体の世界を生きることによって、皆様の一年の新しい始まりが祝福されますように祈ります。

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