信頼への旅

Home » 信頼への旅
bern-switzerland-juny-27-2022-260nw-2191218587

2025年1月19日(日) 説教

顕現後第2主日            

ヨハネによる福音書2章1~12節

信頼への旅

 ガリラヤのカナという村で婚礼がありました。「ガリラヤのカナ」は、イエスさまが育ったナザレの村の北の方に14.5キロほど離れたところにあります。

 カナの婚礼場には、母マリアがすでに行っています。しかし、聖書では「マリア」という名前ではなく、「イエスの母がそこにいた」と記しています。イエスご一行よりも先に行ってそこにいるというのは、きっとマリアの近い親戚の結婚式ではなかったのかと想像できます。それに、ぶどう酒がなくなったときにその状況を仕切っている様子からも、客のもてなしの場をマリアに委ねています。ある伝承には、マリアの妹の子どもの結婚式だったのではと伝えられています。

 イエスさまと弟子たちもその場に招かれました。そして婚宴の最中に、ぶどう酒が足りなくなりました。ユダヤの古い習慣では、結婚式の披露宴は七日間にかけて行われます。飲んで歌い、大変華やかに繰り広げられていたようです。ですから、行われている七日間、招いた客にぶどう酒を出さなければならないのですから、かなりのぶどう酒が必要と言うことが分かります。行われている間、何日目にぶどう酒が切れてしまったのか、もしかしたら新郎の家は貧しかったのかもしれません。イエスさまとお弟子さんたちが飲みすぎたから途中で足りなくなったと言う説もあります。一理ある話かもしれませんが、ともかく、そのピンチをマリアが救おうとし、イエスさまの方に提案をして来ました。「ぶどう酒がありません」と。しかしイエスは、自分とは関係のないことのような返事をします。マリアも負けることなく、「この方が言いつけるとおりにしてください」と、召し使いたちに指示をし、その場を離れてしまいます。

 イエスは、内心、「困った!」と思われたかもしれません。しかし、召し使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じ、水がめが縁まで満たされると、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役の所へ持って行きなさい」と勧めます。召使たちは言われるままに、水がめから汲んだものを世話役の所へ持っていきました。世話役が味見すると、それはぶどう酒に変わっていました。しかもおいしいのです。世話役は花婿が最後までおいしいぶどう酒を取っておいたと思ったので、花婿を褒めています。

 これは、イエスさまが公生涯の中で最初に行われたしるしでした。

 古いユダヤの書物に、「ぶどう酒なければ、喜びなし」という詩があります。

 この婚宴の席上で酒が無くなるという事態に照らし合わせて考えると、イエスは、ただ酒を飲んで楽しくしているその雰囲気を壊したくない、そのためにだけ自らぶどう酒を作るという奇跡をなさっているわけです。他の奇跡のときのように、右手がなえている、それを直さないとその人の仕事が出来なとか、悪霊に取りつかれていて、いつ火の中、水の中へ倒れるかわからないから治すとか、一人息子を失ったお母さんがあまりに気の毒だから、その子を生き返らせるとか、そう言う特別な必要がないのに、ただ、楽しみと喜びの場を崩さないと言う、そのことのためにイエスは御力を発揮なさったのでした。こんな奇跡は、イエスのなさった奇跡の中で他に例がありません。

 つまり、この奇跡が行われた場、そこが大事ですが、ほかでもなく結婚式の披露宴の場です。結婚式というと、神聖な場です。披露宴はその結婚の喜びを現わす場です。イエスさまがそこで奇跡を行ったということは、その場を、つまり結婚というものをとても大切にしておられるということです。結ばれた二人が新しく歩み始める舞台であり、神さまが祝福している場です。その祝いの場、その雰囲気を壊さずもっと高揚させてあげたい。母マリアとイエスさまの以心伝心、二人の思いはそこでつながっていたのでした。

 母マリアは、イエスのことをとても信頼しているのが良くわかります。今まで一度もイエスが奇跡を現わしたのを見たことがないはずです。それは福音書がこのカナでのしるしが初めてと述べているように、きっとマリアもイエスの中に潜んでいる力がどんなものかを知ることはなかった。それにもかかわらず、マリアは、イエスに、婚礼場のピンチを救う人と深い信頼を置いています。

 「この方が言いつけるとおりにしてください」というこの言葉が、イエスへの強い確信です。

 母親に信頼された子どもは、世界に出て行っても自分らしさを発揮して堂々と生きる人になると言われます。子どもにとって母親は、自分を産み出してくれた存在ですから、神々しく感じる存在でしょう。小さい頃の子どもは本当に母親を神のように思います。その神のような存在に信頼される、愛される、認められることのほかに力を育むものはありません。大きくなって習得する知識や経済力、権力などはその次のものです。一国の大統領になったとしても、もしその人が母親の愛情に欠けていたなら、直ちにその座から降ろされるか、暴力的な政治をする人になるので、国民が不幸になってしまいます。

 イエスはマリアにこの上なく愛されました。それは、神の子だから愛されるのは当然だと思う方もいらっしゃるかもしれません。もしそうだとしたら、マリアのイエスへの愛は、「神の子だから」という、条件付きのものに過ぎなくなります。条件付きで向き合うのは、一つの役割を果たしていることにすぎません。そうではなく、マリアは、自分の子どもだからイエスを愛したのです。イエスに深い信頼をおいて、一つも疑うことなく愛しました。

 子どもを疑わずに信じるということ。私自身、本当にそうやって息子を育てたのかと思うと、できるだけ信じようとして育てたつもりですが、百パーセントではありません。つまりそれは、私自身の中に、疑いという負の感情が内在していたからです。のちに祈に導かれ、自分の内面と向き合うようになってわかりました。人は、自分の中にあるものによってのみもう一人の人と向き合うことができるということです。

 負の感情が多く内在しているとき、その人の中に信頼は根を下ろすことができません。神などない、あなたのことなど神は守ってくれない、あなたにそんなことできるはずがない、きっと失敗に終わる…このような心の中の声に、脅かされ、愛するという信頼の道から外れた歩み方をしてしまいます。

 マリアは、そういう自分の内面の声より、神に深い信頼を置いて祈る人だったのでしょう。受胎告知を受ける前から、彼女の神への信頼の厚さのゆえに、天使は彼女を訪れたのではないでしょうか。

 今日の物語の中でもわかるように、彼女の信頼は、イエスにのみ向かうものではなく、召使たちに対しても同じです。「この方が言いつける通りにしてください」という言い方は、彼女の中に何の疑いもなく、恐れがないことを現わしています。

 召し使いたちは、マリアの言葉通り、イエスが言われることに一言の文句もなく動いています。あまりにも従順ですから、人間のようには思えないほどです。しかし、ここでわかることは、信頼の道を一緒に歩んでいるとき、自分が未熟でも大いなる幸いを生きるようにされると言うことです。

 召使たちだけでなく、決まりきった律法の清めの儀式にしか使われていなかった水がめも、奇跡をおこなう器として用いられています。婚宴の場の喜びを一緒に味わっています。マリアの信頼、神の愛のようにすべてを疑いなく愛するマリアの愛、その傍にいるだけで、皆が神の栄光に与りました。イエスさまは初めて奇跡を行うことが出来ました。弟子たちの信仰も強められました。そしてその恵みは、婚礼に招かれた客にまで及んでいます。

 私たちも、そこへ招かれています。信頼の旅路にいるマリアとイエスさまの傍へ招かれました。あなたも信頼された道を歩む人になるように、愛する者となって、あなたの周りを神の栄光で照らし、多くの人と天の恵みを分かち合って生きるように、その恵みをいただきました。

 自分の中に形成されてしまった負の感情に振り回されずに、神の愛を生きる道。他の人の必要を満たしつつ、その人の喜びを支え、悲しみを分かち合う助け手となる。皆様の新しい一年の歩みが、水がぶどう酒に変わったように、神さまの色で彩られ、限りなく注がれる御恵みの中を生きるものでありますように祈ります。

Youtubeもご視聴下さい。

カテゴリー