信仰は聞くことにより

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2025年1月26日(日) 説教

顕現後第3主日           

ルカによる福音書4章14~21節

信仰は聞くことにより

 野球のイチロー選手が、アメリカ野球殿堂入りのための票が一票足りなかったことにどう思うかと聞かれて、「不完全であることはいいことです。生きていくうえで、不完全だから前へ進もうとできる」と答えていました。その通り、彼は今の自分に満足しないで、毎日、同じことを繰り返し行うことでこつこつと力を蓄積していく生き方をしていた。こつこつと積み重ねる努力ができない私は、彼が現役で選手生活をしていたとき、彼の生き方を学ばせていただきました。今回、日本初のアメリカ野球殿堂入り、おめでとうございます。

 さて、安息日を迎えられたイエスさまは、ナザレの会堂に入り、イザヤの預言を朗読なさいました。それはイザヤ61章1節からの言葉でしたが、ルカはギリシャ語訳で少々異なる言葉で記しています。

 「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人々に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(18~19節)。

 朗読を終えられたイエスさまは人々に向かってこう告げられます。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。それを聞いた人々は、イエスをたたえ、その口から出る、恵みに満ちた言葉に驚いています。しかし、人々がイエスを称えているのは、ヨセフの子なのに、自分たちを感動させるほどの言葉を話していることにありました。ですから、もう少し進んで読んでみると、自分たちの都合が悪くなると、イエスを町の外に追い出していきます。彼らはイエスさまが語られた言葉を少しも理解していなく、心より受け止めようともしなかったのでした。

 朗読の後にイエスさまが告げられた言葉、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」、この言葉はとても大切なことを含んでいます。この中に、「今日」という言葉があります。ここで言われる「今日」という言葉は、聞く側が適当に聞き逃してしまってもいいような言葉ではありません。

 ルカ福音書の中には、「今日」という言葉が数カ所で使われていますが、一つは、イエスさまの誕生物語の中です。野原で野宿をしながら羊を守っていた羊飼いたちのところに御使いたちが現れます。そのとき、御使いたちはこう述べていました。「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2:11)。「今日」生まれたと述べています。

 そして、19章のエリコの徴税人の頭であったザアカイのところをイエスさまが訪れたときです。イエスさまがザアカイに、あなたの家に泊まると伝えると、ザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人たちに分け、騙し取ったものがあればそれを四倍にして返しますと告白します。そのとき、イエスさまはこのように述べられました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(19:9)と。

 それから、イエスさまが十字架刑に処せられる際、その右と左に二人の強盗が一緒に十字架に付けられていましたが、一人がイエスに願います。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と。するとイエスさまは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23:42)と宣言してくださいました。

 このように、「今日」という言葉が使われているところをアップして聞いてみると、神の救いの力が現れたことを表すときです。誕生物語も、徴税人の頭のザアカイの物語も、犯罪人の強盗を楽園に入る物語も、イエス・キリストのご臨在を通して、神の救いの力が満ち満ちている、この時、この場で、聖書の約束は実現している、成就されているということを現している言葉として使われているのです。

 今日の福音書の方に戻ってみましょう。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。ですから、ここでの「今日」がもつ意味は、「聖書の言葉は、あなたがたが聞いてくれた時に成就した」ということではないということです。もし、それだとしたら、歳を取って耳がよく聞こえなくなっている人にはあまり聞こえないので、その人にあっては成就しなくなると言うことになります。逆に、良く聞こえる人でも、情報的なこととして聞いたり、あのナザレの人たちのように語る人の身分や出身を中心にして聞いていたりするかぎり、御言葉の成就とは関係なくなるということです。

 「あなたがたが耳にしたとき」と訳されたのを直訳すると、「あなたがたの耳の中で」というふうになります。つまりこれは、御言葉が成就した時のことを表すのと同時に、成就した場所、または成就した形、すなわち、成就したことと「あなたがた」とのかかわりを表しているのです。今日、私が御言葉を聞いたとき御言葉は、自ずと、ひとりでに、成就された。成就されたことと、御言葉を聞いたあなたはどんな関わりをもったのか、ということです。

 以前もお話したことがあると思いますが、御言葉の性質はオートマチックです。ひとりでに、おのずと働きます。イエスさまは神の国を現わすときに、成長する種を用いて喩話をなさっておられます。「人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は目を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる」(マルコ4:26-28)。ここで言う「おのずから」という言葉が、原語では「オートマチック」と言う言葉です。

 そう、御言葉は、人の意識の世界を超えたところで成就するということです。ですから、「今日」という言葉が使われているときのイエスさまのお言葉は、おのずと、ひとりでに、実現した、成就されたのです。羊飼いたちも、ザアカイも、強盗も、そして私たちも、御言葉の成就の中にいます。

それなのに、私たちは、御言葉を自分の性格や自分のとき、その日の気分に合わせて使う場合があります。または文字どおり武器のように使ったり、説教を聞いても、語る牧師の位によって御言葉への評価が異なったりします。

 または、御言葉はどんどん先へ歩み出しているのに、聞いた私は過去へ戻ろうとし、神は貧しさの中におられるのに、私はもっと富を求め、神は私の弱さを誇りにしてそこにおられるのに、私はその弱さに不平不満をもち、神とばらばらな関係の中にいたりします。

 そうではなく、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、今日、聞いた御言葉は実を結ぶために、あなたの耳の中で、おのずと芽を出し始めた、さあ、あなたはどうしますかと私たちは問いかけられているということです。この問いに対してペトロがいい姿を見せています。

 使徒言行録4章で、ペトロは、ユダヤ教の議員たちから何度も、その名によって語ってはならない、黙っていないと口止めされます。しかしペトロはこう言うのでした。「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使4:20)と。

 つまり、御言葉を聞いたというのは、証人になった、聞いたことを述べ伝える人とされたことだと。これが御言葉、つまり、説教を「聞く」という意味なのです。何か聞こえて来た噂話を聞くとか、テレビでだれだれのスキャンダルな話を聞いたのと同じ聞き方とは異なると言うことです。

 ですから、御言葉の聞き方が実りあるものとなっていくためには、こつこつと短い時間でも決めて祈ること、祈り通して自分のエゴが浄化していくように訓練を積み重ねていくことだと思います。なぜなら、私たちの証人としての歩みは死ぬその時まで続くからです。人の耳は死んでからも聞こえると言われます。幸いに、私たちは、死んでからもイエス・キリストが話されるお言葉を聞く者とされたのです。死んで、耳元で成就されるイエスさまの言葉に導かれながら、私たちは神の国へたどり着くのです。

 イチロー選手はこのようにも述べていました。

 「小さいことを重ねることが、とんでもないところにいくただ一つの道だ」と。

 今日午後より、会員総会が開かれます。新しい年の宣教指針として「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)という御言葉を選んでみました。

 隣人の喜びを素直に喜び、隣人の悲しみをそっと分かち合う。喜びや悲しみを解釈してああだこうだと言わなくてよくて、ただそっと寄り添い、その人の喜びや悲しみの中に介入される神の現存を見つめるのです。言葉にならない隣人の喜びや悲しみを心の耳を開いて聞く。そうすることによって、また私の中の喜びや悲しみが分かち合われ、満たされるからです。そしてそこで、御言葉と隣人と私が一つになった一体感を成せる。まさに神の国の訪れです。神の国をこの世にもたらせる一年を共に歩んでいきましょう。

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