立ち去る 古きより

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2025年2月2日(日) 説教

顕現後第4主日

ルカによる福音書4章21~30

立ち去る 古きより

 ナザレの人々は、イエスのイザヤ書朗読を聞いて、イエスを褒め、その口から出る恵みの言葉に驚いています(22節)。どうしてそれほど驚いているのか。それは、僻地の小さな村のナザレから預言者が出たことに戸惑っている様子です。こんなところから出るはずがないというような皮肉な思いが込められた驚きのように見えます。驚きの後に、「この人はヨセフの子ではないか」と言っていることからもわかります。ナザレの人々は、イエスのこと、そしてヨセフのことをも貶めています。

 その人々に向かってイエスは、「医者よ、自分を治せ」ということわざをもって立ち向かいます。イエスは人々の心の思惑を察しておられました。

 「医者よ、自分を治せ」ということわざは、いろんな書物の中に記されています。「医者は他人のため、しかし自分は傷だらけ」(ギリシア エウリピデス『断片』1086)、「医者よ、自分自身のびっこを治せ」(ユダヤ教のダルムード)と。他人は治すが自分自身は治せない医者の無能力に対する批判やあざけりのことわざのようです。

 イエスが十字架に付けられたときにも同じ言い方で言われています。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)と。十字架の傍を通り掛かっていた人々や、祭司長、律法学者、長老たちがあざ笑いながら言った言葉です。

 人々がイエスを嘲笑う。神のこと云々ではなく、自分を信じてもらえるようなしるしを先ずは見せなさいと。ナザレの人たちも、十字架の傍を通る人たちも、宗教界の祭司長や律法学者、長老たちも皆イエスのことを嘲笑っています。

 「傷ついた癒し人」という本があります。ヘンリ・ナウエンという、カトリックの司祭が書いたものですが、彼は、長い間ハーバード大学で教えていましたが、亡くなる前の10年間は、カナダのデイブレイクにあるラルシュ・コミュニティの牧者となり、知的ハンディを負った人々と生活を共にしていました。1972年に出版されたこの本の中で、彼はこのように述べます。

自分自身の「傷」を認識することが癒し人・治療者にも求められる。癒し手自身が深い傷を負った経験を持っており、その痛みを直視することが深い気づきにつながる」。それは、「自らの傷と向き合い、そこから得た知識や感情的な洞察を他者に役立てることができるからである」と。

 つまり、自分自身が癒された経験が、他者を理解し、支える力に変わる。また自分の傷を知ることで、他者の痛みに対する感受性が高まり、真の共感をもたらすということです。

 人が自分の内面の傷に本気で向き合おうとすれば、癒される過程の中で神に出会います。しかし、大体の人は、傷から逃げて生きています。その傷は、ときには怒りを通して現れ、ときには自分を傷つけるようにして現れます。放置しておけば人を傷つけ自分をも傷つけるものになります。それは、自分だけが負っているもので、誰にも理解できないものです。勇気を出してその傷と向き合おうとすれば、そこに神がおられることに気づくのです。自分の弱さの中で出会う神の存在、そこで人は自分が独りではないことに気づかされます。

 ナザレの人々は、自分の内の深い傷に蓋をしている人たちでした。本当は孤独で寂しく、心を割って話ができる友達を求めているはずですが、自分の内面の声に耳を塞ぎ、感覚的な事柄だけに頼って生きる人たちです。ですから、自分たちとは変わった生き方をする人であったり、それまでの慣習にはない新しいことを始めたりする人を孤立させることで、その人と自分を分離させ、正しい人、正しくない人と区別します。相手を貶めることで、勝ち取った思いになり満足してしまう。自分の思うようにいかないときには、相手の命をも危険にさらせられる、偏見と暴力性で自分の周りを固めて生きる人たちです。

 ナザレの人たちは、イエスが自分たちのことを批判するようなことを言っていることに気づくや否や、憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、街が建っている山の崖まで連れて行き、イエスを突き落とそうとしました。

 しかし、そこでイエスは、人々の間を通り抜けて立ち去られます。イエスは人々の間を通り抜けて立ち去ったと書かれていますが、実際イエスが立ち去ったのは、人々の中に深く場を取る闇、つまり、憤慨する性質、嫉妬、妬み、苛立ちのような暴力性から立ち去ったのでした。聖書はこれらの性質的なものを「古いもの」とふるい分けます。それでは、イエスが入って行かれた新しいものは何か。本日の第一日課として選ばれているコリントの信徒への手紙の中に記されています。愛する道です。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13:4-7)。

 この愛が、神さまが私たちに向けてくださる愛で、キリストはそれの実践をなさった方です。イエスはこの愛の道へ立ち去られたのでした。

私が皆さんにカードを書くとき、時々「新しい始まり」という言葉を使います。誕生日のカードに書く場合が多いのですが、一つ歳取ったから新しい始まりを生きるということでもありますが、キリストの愛に生きる時がもう一度与えられ恵みの年が始まったと言う意味が含まれています。それくらい、私たちもナザレの人々のように、目には目、歯には歯という向かい合い方はするものの、キリストの愛に生きる、キリストが私を愛したように愛する道を生きるのには乏しい歩み方をしているからです。小さなことに忍耐しない、情け深くない、妬み、自慢し、高ぶり、失礼な事をし、自分の利益のために行動し、怒り、思うようにいかないときには悪を企み、気づかないうちに不正を行うときもあります。それが私のそのままの姿であるということです。その自分を受け入れなければ、負の実りをもたらす暗闇の力から解放されることはどんどん遅れていくようになるのでしょう。

 イエスのように古いもの、つまり自分がどんな者かも知らずに感情的になって向き合ってくる人々の暗、そこから立ち去って光の方へ出て行く、その力を身に着けたいものです。イエスがその道へ堂々と去って行かれたのは、精神的にも物理的にも背負っているものがないということでしょう。シンプルで単純素朴な方でおられた。この方の中にあるのは、どうすれば神の国をこの世にもたらすか、どうすれば人々が分け隔てられることなく平等で、平和に暮らせるか、互いを尊び合って謙虚に仕える姿で生きられるかということだけがいっぱいだった。だからと言ってイエスの中に傷がなかったのではないのです。郷里の人たちだって自分を敵に回し、愛する弟子たちもいざというときは皆逃げてしまい、宗教界の人たちからも敵対視され、誰一人味方になってくれる人がいなくなった時も、キリストは神さまとの交わりの中で生きられたのです。見捨てられた悲しみ、その孤独を神さまの愛によって克服し、癒され、それが敵をも愛する力に変えられたのです。

 ヘンリ・ナウエンは、続けてこう述べています。

 「孤独が負い目ではなく、実は、他者との交わりの接点になり、他者の痛みを癒す創造的な源にもなりうる」と。そして、「キリスト者の生き方は孤独を取り除きはしない。孤独を尊い贈り物として守り、大切にするのだ」と。だからこそ、〈孤独〉とどうやって共生していくのかが、鍵となる」と。だから、「魂のもてなしを経験することで、孤独の傷を力に変えられて、私たちは皆それぞれに傷ついた癒し人になることができる」と。

 自分が負った傷によって生じた孤独は負い目ではないというのです。むしろそれが他者との交わり、他者の痛みを癒す源になると。ですからキリスト者は、自分の中にある負の性質を取り除こうとせず、共生する中で、魂のもてなしの経験をするのだと。神体験です。

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