主に信頼する人

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2025年2月16日(日) 説教

顕現後第6主日

ルカによる福音書6章17~26節

主に信頼する人

 皆さんは最近何かに感動したことがありますか。食べ物、言葉、さまざまな出会い、真冬の好天や夜空の星や月を見て、すごい! 素晴らしい! と思ったとか。それとも、ささやかな日常の中で音楽を聴いたり、絵や冬の風景を見たりして感動するとか。

 私は毎日子どもたちの声を聞いたり、水曜日は子どもたちと聖書の話をしたりする時間があるので、子どもたちを通して多くの感動をいただいています。今、幼稚園では作品展が開かれていますが、今年も子どもたちの作品を見て、ゴッホに比べても恥ずかしくないくらいのもののように思いました。人と比べるのはいいことではありませんが、しかし、幼稚園がこの時期になると素晴らしい美術館になる、今にしか見られないオリジナルな作品が展示されているのです。

 昨日はオズの魔法使いという劇を舞台に上げてくださいました。私は水曜日のリハーサルを見たのですが、胸が詰まるほどの感動をしました。小さな口を開いて、大きな声で、ときには歌いながら、心はどこか遠いところにあるのではなくすでにあなたの中にあるのよ。賢さも、勇気も、今、あなたの中。その声を聞きながらハッとさせられたのは、自分が、心を失って、知恵や勇気を遠くから見つけようとしている、その自分に気づかされたのでした。私だけではなくその場にいたみんなが感動の涙を流しました。素晴らしいときでした。

 オズの魔法使いは見られませんが、まだ作品展が開かれていますので、どうぞ立ち寄ってみてください。

 小さなことでも感動すること。それが老化のスピードを遅くさせるそうです。感動することで老いるのが遅くなると聞いたら感動する生活を試みてみたくありませんか。老いを遅らせるために食べ物や運動・ストレッチなどをがんばっておられる方々もいると思います。しかし、どんなに体のために尽くしても、心が老いをかぶってしまっているとするなら、無駄な抵抗になってしまいます。

 逆に、心が若々しければ、体は心の若さについて来るようになります。感動をすると言うことは、まさに心が若々しいということですから。そして、心が感動に動かされるとき、私たちはもう一人の人、隣人の心に光を分かち合う付き合い方ができるようになります。

 さて、弟子たちと山から降りられ平らなところに立たれたイエスはこう述べておられます。

 「貧しい人々は、幸いである 神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである あなたがたは笑うようになる。人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」(20‐23)。

 イエスさまは、神さまが人に呼びかける幸いをそのまま生きておられる方です。それを、弟子たちに教え、今日、私たちにも教えつつ、ご自分が生きておられる幸いの中へ私たちを招いておられます。

 しかし、イエスさまが招かれる幸いの中身のことを聞くとその中に入って行く勇気が必要そうです。その中身は、貧しさであり、飢えることであり、涙を流すことです。さらには、憎まれ、排斥され、罵られるようなことです。つまり、ありとあらゆる面において、世界・社会の底辺に生きる者になって、迫害を受ける立場に立たされた生き方を幸いと述べておられるように聞こえます。このままだと何だか貧乏くじを引くようで、貧乏神を信仰している人のようです。

 なぜなら、私たちは貧しさから抜け出るために、少しでも豊かになることを求めて一所懸命に働いています。人に嫌われないために仲良く、やさしさを身に付けようとしています。迫害を受けることは、何が何でも避けたいです。ですから、「人に迷惑をかけない」、「警察のご厄介にならない」、「健全な社会人として生きる」ことを大切に守りながら生きています。

 その私たちがイエスさまの幸いの中へと、今日招かれているのです。イエスさまが生きておられる貧しさや飢え、排斥や罵りを平気で受けながら生きる世界へ入ってくるように。どうやって私たちはその中に入って行けるのでしょうか。そもそも、イエスさまの貧しさや悲しみ、イエスさまが受けられた苦しみを受ける勇気があるのでしょうか。

 私自身、イエスさまの道を歩もうと献身し、今その道で働いていますが、生活の貧しさや人々からの中傷などは受けても何とか耐えられそうですが、イエスさまや弟子たちが受けた肉体に受ける迫害をそのまま受けることはできそうもありません。

 先週は右肩に炎症が起こり、それからずっと、今も右腕が不自由になってしまいました。体がアップアップであるサインを出していたはずなのに、気づかず無理に動かしていたのでしょう。自分を生きるように与えられているこの体に対してもそれだけ鈍いのに、イエスさまのように迫害を受ける体となっていくのは、私のようなものには難しいと思うのです。

 そう言う状況の中でも感動がありましたが、人間に腕が二本あってよかったということです。右腕が不自由になると、左腕がカバーしてくれる。だから、生活が出来ています。神さまの創造のすばらしさに、感動せざるを得ない日々です。

 さて、話を戻しますが、実は、幸いについてお話を始めるイエスさまの傍には、「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの話を聞くため、また病気を治してもらうために来ていた」(17∸18)のでした。そして、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」(19節)とあります。流れからだと、群衆に求められてお話をなさっておられるように見えます。その群衆たちは、貧しく、飢えていて、偉い人たちから虐げられているので心はぼろぼろ、将来が見えず、人生に泣いている人たち、社会や国の底辺に生きる人たちです。

 つまりイエスさまは、彼らの今のままをポジティブに受け止め、そのあなたのままでいい。あなたがたのために神の国はある。今のあなたがたの飢えを神は知っていてくださり、あなたがたの涙を神さまがぬぐってくださると宣言してくださった。それに続けて言われる迫害のことは彼らがイエスさまを信じることによって、これから受けることを予告しておられるのでしょう。

 ここですごいと思うのは、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」ということです。ここで「触れようとした」に使われている動詞「触れる」という言葉は、物理的に物に触れるという動作を表すより、精神的・霊的に触れる場合に多く使われる言葉です。つまり、人々は、イエスの衣や体に触れようとしているのではなく、イエスの霊的な力に触れようとしているのです。それは、信頼を表しています。目に見えない神にこそ信頼をおく人の純粋で尊い姿なのです。

 イエスさまが招かれる幸いの中に入っていく通路がここにあります。神の国へ入っていくのは人間の力や人間の行いではなく、一方的な神の恵みと働きかけであることが強調されるために、私たちはどこかで、生ぬるい姿で信仰の道を歩いているのかもしれません。つまり、この世の秩序、「人に迷惑をかけない」、「警察のご厄介にならない」、「健全な社会人として生きる」などの倫理感覚は大切にしつつも、目に見えない神の国の幸いを生きることにはとても消極的であるのです。

 本日の詩編もそうですが、旧約聖書のエレミヤ書も述べています。

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない」(エレミヤ17:7∸8)。

 主に信頼する人、つまり、目に見えない神聖なものに何とか触れようとしてイエスに近づく人、その人は神に信頼をおいている人であると。その人の生涯は水のほとりに植えられた木のようで、葉がしおれることがないというのです。若さがどこまでも続くのです。まことの幸いがここにあります。その幸いの中にあるときに人は、小さなことにも感動するのでしょう。

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