山を下りる

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2025年3月2日(日) 説教

主の変容主日

ルカによる福音書9章28~43節a

山を下りる

 みなさん、信仰って何でしょうか。漢字では信じて仰ぐと表現しますが、それはどのようにして私たちに形成されるようになるのでしょうか。私自身、神さまへの信仰を持っているようで、家族や友達に対してすぐ不平不満を言ってしまうときがあります。矛盾している自分の姿に気づくのです。神への信頼の土台にちゃんと立っていないからと思うのです。今日イエスさまは、弟子たちを厳しく叱責しておられますが、まさに私に対する叱責として受け止めざるをえません。

 さて、先ほど読まれた福音書の初めに、「この話をしてから八日ほどたったとき」と記されていました。八日ほど前に話されたことが、今日の福音書のすぐ前の段落に記されています。祈っておられたご自分のもとに集まってきた弟子たちにイエスさまは聞きます。「群衆は、私のことを何者だと言っているのか」と。「洗礼者ヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人も、他に昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます」と弟子たちが答えると、イエスさまは「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と聞きます。ペトロが、「神のメシアです」と答えます。

 このペトロの答えをきっかけにイエスさまは、神のメシアである自分はこれから多くの苦しみを受け、三日の後に復活することになっていることを打ち明けられます。そしてそれと同じように、神のメシアの後に従いたい者たちも、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついて来るように勧めます。なぜなら、自分の命を救うためには、そのほかに道はないからです。このお話をなさったのが八日ほど前のことでした。

 それで八日の後、イエスさまは三人の弟子を連れて山に登られます。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、彼らはそこで恍惚な光景を目の当たりにします。祈っておられたイエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝き、そしてそこに、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合っているのです。イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話されたと聖書は記しています。

 彼らは、八日前に、山の上でモーセとエリヤが現れて話したのと同じことを聞きました。聞いていても理解できなかったのかもしれない。山の上ではイエスさまが祈っている間寝ていました。ですから、モーセとエリヤが離れようとしたとき山の上の様子が変だと気づいたのでしょうか、ペトロが口を挟んで言います。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、もう一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」と。聖書は、「ペトロは自分でも何を言っているか、わからなかったのである」と記しています。

 「ペトロは自分でも何を言っているか、わからなかった」。神の栄光の前の人間の鈍い姿です。山の上で起きていることと、何を言っているのかわからない人間の姿があまりにも対照的です。まるで、神のメシアの受難は人間とは関係なく、ペトロのような鈍い人には隠されていることであるかのように進んでいるように見えます。

 しかし、イエスの受難は人間を通してもたらされます。そもそも、イエスさまは鈍くて弱い人間を弟子としてコールされ、今一緒にいるわけです。つまり、神の業は、闇の中に閉じこもっているような鈍い人間を通してこそ成就されるということです。

 さて翌日、イエスはその弟子たちを連れて山を下りられました。下りられた山の麓では大勢の群衆がイエスの下山を待っていたかのように集まってきます。そこには、てんかんで苦しんでいる息子を持つ父親が、必死にイエスに助けを求めて叫んでいます。「どうか息子を見てやってください」と。「あなたの弟子たちに頼んだのですが、できませんでした」と。

 この時のイエスさまの心境。山の上に連れて行った三人は頓珍漢なことを言うと思えば、山の下に残っていた者らは困った人に何の役にも立たないでいたのです。

 イエスさまは弟子たちに向かって厳しく言われます。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と。

 「不信仰で、ゆがんだ時代」。これと同じ表現が申命記32章5節にもあります。「よこしまで曲がった世代だ」と、モーセが民に向かって語った言葉です。言うまでもなく、エジプトから救い出されたイスラエルの民が、神さまとモーセに導かれて荒れ野の旅をしていたとき、神さまに逆らい、自分たちの指導者モーセに抵抗して不平不満をぶつけ、他の神々のところへ走った、それに対して述べた表現です。そのように、今、イエスは、弟子たちを含めて「不信仰で、ゆがんだ時代」と叱っているのです。

 しかし、この弟子たちですが、同じくルカ福音書9章では、悪霊を追い出せる力、病を癒す権能を授けられて巡回伝道に出て行った経験をもっています。そのときは、成果を上げて帰って来たのでした。しかし、今はそれが「出来ない」のです。数日前までは出来たことが、どうして今は出来なくなったのでしょうか。

 マルコ福音書の言葉によれば、「このたぐいのものは祈りに寄らなければできない」(9:29)とあります。マタイの福音書では、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るだろう。あなたがたにできないことは何もない」(17:20)と述べています。

 というのは、できなかった理由はそれほど難しいことではないということです。弟子たちは、せっかくイエスさまから授かった権能や力というものを、授けてくださった源でおられるイエスさまと結びつけて「祈りながら使う」とか、「信じながら発揮する」ということをしなかった。もうもらってしまえば、あとは自動的にいつでも自分の好きなときにやれると、そういう自分の実力のように受け取ってしまった。ですから、イエスが山に登ってお留守のところでは何も力を発揮することができなかったのです。祈らないのですから、その力の源であるイエスに信頼を置くこともして来なかった。これが「不信仰で、ゆがんだ時代」の人の在り方であると、イエスさまが厳しく叱っておられる言葉の意味なのです。

 今日は、「山を下りる」というテーマで御言葉の解き明かしを聞いていますが、この山とは何かと一緒に考えなければなりません。その山とは、つれて行かれた三人が、イエスさまが祈っておられても眠っていた所です。ペトロの弱さがもろに告発された所です。神の業と人間の弱さが対置される所。神に信頼を置いてイエスに従っていると言いながら、結局、自分の欲望の奴隷としての生き方から抜け出せないこの私のエゴ、怠慢、傲慢、うぬぼれ、不平不満、そこが私の山ではないでしょうか。長い時間をかけて私の中に形成され、神の純粋で素朴さに対して鈍くさせ頓珍漢な発言をさせるもの。イエスに呼ばれ、その後に従っているつもりでいた弟子たちは、これらの感情の山の上に居座るままでした。彼らは仲間とも競争して勝つという成功心が強く、成功主義に燃えていたのです。イエスさまはその弟子たちを連れて山を下りられました。本日読まれた旧約聖書の出エジプト記の中のモーセも、神と対面して語り合っていた山から下りています。彼は、神から聞いたことをすべて人々と分かち合っています。

 山から下りるためには力が必要です。登山をしてわかることは、山は登るときも大変ですが、下りるときの方がもっと大変だということです。膝に負担がかかるので力が要ります。それとまったく同じく、自分が居座っている自分の山、エゴやうぬぼれ、不平不満の山から下りるためには、一人の力ではできません。力の源でおられるイエスとつながって、そのイエスを土台にして信頼を築かなければ、自分の山から下りることはできないのです。それを今日の変容主日の福音書は私たちに教えています。山の麓にいた弟子たちも、結局は自分の山に居座っていたのです。

 さあ、どうしたらイエスを土台にして神に信頼をおくための信仰を築き上げられるのか。それは、日々、朝晩、祈りのルーティンをつくって静かに座る。自分の山を下りるためには、それの繰り返ししかありません。その中で少しずつ自分の山から神の純粋さ、神の素朴さ、子どものように謙虚な世界へ移って行く。そこでこそ私たちは隣人の必要に応えられる、イエスの弟子として用いられるようになるのではないでしょうか。

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