幸せのパン

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2025年3月9日(日) 説教

四旬節第1主日           

ルカによる福音書4章1~13節

幸せのパン

 

 みなさんは、「しあわせのパン」という映画をご覧になったことがありますか。

 北海道の洞爺湖のほとりの月浦という田舎を舞台に、パンカフェを営む夫婦と、店を訪れる人々の人生を四季の移ろいとともに描いた心温まる映画です。札幌出身の水縞くんと、水縞くんに呼ばれて東京から来た、りえさんが「マーニ」というパンカフェを開きます。水縞くんがパンを焼き、りえさんがそれに合うコーヒーを淹れて料理をつくります。そこには、北海道から出たいのに出ることができず悩んでいる青年やお母さんと別れて悲しむ子どもとその父親、思い出の地を再訪した老夫婦などいろいろな人がやってきます。訪れた人たちは、パンカフェの夫婦との出会いによって、家族や仲間の本当の意味、前へ進むための勇気をいただくのでした。まるで教会のようなパンカフェの話です。

 私はこの映画を観てパン屋さんになりたいと本気で思ったことがあります。牧師を止めてバリスタの資格を取り、パン作りの勉強をしてカフェを開けば、教会よりももっといい働きができると思ったのです。

 ところが、私と同じ思いを持った人が韓国にもいました。ユーチューブを見て知ったのですが、韓国のある若い夫婦がこの映画を観て、実現していました。映画を観て、自分たちにも同じことができると思ったそうです。韓国の江原道の春 川 というところの山奥ですから、北海道のように雪が降って寒いところです。ユーチューブの映像は四面が真っ白でしたが、夫婦が家の前で炭火を起こしてパンを焼いていました。捏ねたものを鍋に入れて、鍋の上下に炭火を載せると、鍋の中でホカホカのパンが出来上がる。黒い鍋からホカホカのパンを取りだして食べているのを観ているだけでおいしそうで、幸せそうでした。パンカフェのほかに、映画と同じく、訪ねた人を泊められるゲストハウスをも作って、もてなすことを大切にしていました。今度韓国に行ったら訪ねてみようと思います。

 今日は四旬節第1主日で、イエスさまが荒れ野で悪魔から試みを受けられたところから福音を分かち合っています。イエスさまは、四十日間何も食べずに祈っておられました。祈りの期間が終わり、「空腹を覚えられた」、その隙間を狙って悪魔が試みてきます。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と。しかしイエスさまは、「『人はパンだけで生きる者ではない』と書いてある」と聖書の言葉を用いて悪魔を退けます。

 イエスさまが用いられたのは申命記8章3節の言葉ですが、そこにはこのように記されています。「そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった」。

 ルカは後半の「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉を省略していますが、その分私たちはいろいろと想像することができるわけです。「人はパンだけで生きる者ではない」、それでは、パンのほかに、何が必要なのか、と。それで、私はあの「しあわせのパン」という映画を思い出してもう一度見たわけです。

 そして、韓国でこの映画を実現している夫婦が、炭火を黒い鍋の上下に載せてパンを焼いているのを見て、石をパンに変えたことのようにも私には見えたのです。しかし、石のように見えた黒い鍋の中にはちゃんと小麦で捏ねたものが入っている。それを見逃してはいけないのです。つまり、種を蒔いていない所から芽が出るはずがないということです。悪魔がイエスにささやいたのは、種を蒔かないところから実りを期待していることでした。ともすると、私たちの信仰もそうありがちです。愛するという種を蒔いて芽が出たら、水や肥料を上げる努力をして、実りを期待するのです。どこかで、神の子ならと言う一言にのせられて、何でもしてくださる神に漠然と期待するのは良くないのです。

 悪魔の誘惑の中身は、虚栄心や傲慢、うぬぼれを煽るものでした。他の二つの誘惑からもよくわかります。

 二番目に悪魔は、「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。『この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる」」(5-7節)。

そして、三回目、「悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。なぜなら、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じてあなたを守らせる。』また、『彼らはあなたを両手で支えあなたの足が石に打ち当たらないようにする』」(9-11節)。

 悪魔もみ言葉を引き出して誘惑しています。先ほど交読された詩編91篇の言葉を悪魔も知っているのです。「主はあなたのためにみ使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守られる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」と。まるで、神からの使いであるかのようにみ言葉を自由自在に使いこなしています。

 イエスさまはこれらの誘惑をすべて退けられました。それは簡単なことではありません。しかし、このときのイエスさまは霊的に満たされているときです。四十日間の断食の祈りが終わったばかりのときですから、神の力が充満に働いている、聖霊に満ち溢れているときでした。

 まさにイエスさまの荒れ野での祈りは、これから公生涯を始めるにあたって、悪魔が提案して来た、その三つのことを退けるための祈りでした。十字架の道を歩いていると言いながら、今日は何を食べようかと日々思い煩い、権力と栄誉のことで葛藤しながら悩み、自分の中から不思議な力が出るか出ないかと煩悩に振り回されるなら、十字架の道は歩けなくなります。ですから、イエスさまは、常に祈ることを大切になさいます。荒れ野での四十日間の断食の祈りが終わりではなく、毎日、暗いうちに起き上がって人里離れたところで祈っておられました。祈りなしには神からの言葉なのか、悪魔からの言葉なのかの識別が出来なければ、あっという間に虚栄心やうぬぼれというものが心に場を取ってしまうからです。

 イエスさまのように、祈りの生活の中で人は謙虚になります。謙虚というのは、先ほど申しましたように、種を蒔いていない所から実りを期待したりはしないと言うことです。自分の時間と労働で種を蒔き、蒔いた所から芽が出てこれば、それを育てるために水と肥料を施し、雑草を取り除きながら管理をします。

 それは、どんなことでもそうです。私たち人間は言葉を持つ者ですから、言葉の種を蒔くことに気を付けなければなりません。今日、自分が出会った人の心に、どんな言葉の種を蒔いたか。何も考えないでただしゃべっていても、相手の心の畑には種が蒔かれるのです。そしてそれは自分の心にも蒔かれるようになります。ましてや、人のことを勝手に解釈して根拠もないことを話すなら、言うまでもありません。そこから期待される収穫は、虚栄心やうぬぼれのようなものが何十倍になったものです。それらは、互いの関係に不和をもたらすだけです。私たちは、そんな実りをもたらすような関係作りはしたくありません。一言を話しても、互いが幸せになれる言葉を話したいのです。相手が勇気を出して夢に向かって歩き出せるような励ましの言葉や、精神的・身体的にハンディを持っている人、またその家族に向かって、あなたはこの宇宙でたった一人しかいない尊い存在であるという、ポジティブな言葉を話す人でありたい。もし、ポジティブな話でなければむしろ沈黙していた方がいい。あのしあわせのパンの映画名の中のカフェでは、本当にそうでした。相手の気持ちをただ笑顔で受け止め、おいしいパンともてなしで傷ついた心を温めます。

 私たちに食べるパンが与えられ、権力や栄とまでは言えなくても、経済的に恵まれているとすれば、それらを介して、あらゆる立場に置かれている人々と、家族のように、幸いを産み出す生き方をするようにして与えられているものではないかと思うのです。

 イエスさまがご自分に与えられた神さまのものをすべての人に分かち合われました。病気の人々には癒しを施し、心が飢え渇いている人々にはお言葉をもって渇きを癒され、最後には命まで差し出して、すべての人が武器ではなく愛によって救われることを願ってくださいました。イエスさまは私たちのためにしあわせのパンになってくださったからです。私たちもその愛の実践の歩みをスタートしましょう。

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