イエスの心に触れる

2025年3月23日(日) 説教
四旬節第3主日
ルカによる福音書13章1~9節
イエスの心に触れる
先週は第74回目の幼稚園の卒園式がありました。21名の卒園児が小学校へ進級します。私も年長組の子どもたちと聖書の話をしているので、1年の間、子ども一人ひとりの成長を見守ることができます。特に、冬休みが終わって3学期を迎えた子どもたちは、その成長が著しく、溢れる命を飾ることなく見せてくれます。それは、感動せずにはいられないほどです。ですから、私は思います。この幼稚園を卒園した子たちは、大きくなったらみんなミュージカルの俳優になれるのではないかと。まだ6歳くらいの子どもの劇や歌が大人の心を感動させるのです。
3年間、幼稚園で大きな成長を成し遂げている。それは、年々歳を取っているから成長しているという自然な成長の在り方を超えて、一人ひとりに与えられている命を輝かしながら成長させていく、その子の中に与えられた賜物を見つけ出していくという日々の保育の中でこそ生まれることだと思いました。卒園式までの3学期の日々は、3年間の実りをみんなにプレゼントする日々。私もそのプレゼントをいただいて、胸がいっぱいになりました。
そして、卒園式が終わって今日の福音書を黙想していて、一人で泣いてしまいました。胸がいっぱいになるプレゼントをくれた子どもたちは、実は、私のために神さまに祈ってくれているイエスさまにほかならないと思ったのです。自分では実れない、先ほど読まれた福音書のいちじくの木のように、一人ではどのようにして実りを出すのかわからず今まで一度も実りを出したことのない、その私の渇いた魂をしっとりさせ、頑なな心を柔らかく耕してくれたのです。
さて、福音書です。
実を結ばないいちじくの木を、3年の間忍耐強く実を結ぶのを待ったけれども、実ることがないので切り倒せという主人に対して、なおもう一年の忍耐を願い求める園丁がいます。この園丁は「今年も、このままにしておいてください。木のまわりを掘って肥料をやってみます」と言うのですが、実は、肥料を施すことは当時の農法では全くあり得ないことだと言われます。ともかく、この園丁は通常ではとても考えられないほど、このいちじくの木に執着している、そう言えるほどいちじくの木をかばっています。確かに一年たってもだめなときは切り倒すという厳しさも語られてはいますが、手間ひまかけて肥料までやってみるというのは、まったく採算を度外視した行為であり、それは結果としてこの園丁は本来忠実でなければならない主人にあえて逆らってまでこのいちじくの木を愛おしんでいます。
そうして、その後、このいちじくの木がどうなったのかも語られることなく、「それでだめなら、切り倒してください」というこの園丁の言葉が余韻を残してたとえは終わります。それ故この「切り倒してください」という園丁の言葉は、このたとえの前に二度繰り返し語られた「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(3、5節)、この警告といやでも結びついて、滅びという緊張感を残してたとえは終わります。とは言え、ここで問題となっているのは「実を結ばない」いちじくの木、つまり、決して「悔い改める」ことはない存在です。とすれば、なぜ、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、この警告に続いてこのたとえが語られているのでしょうか。そして、このたとえの中心点、焦点となっているのは、いちじくの木ではなく、ただこの園丁、彼の語ることであり、そういう意味でもどこにも「悔い改め」を暗示するものは語られていないのです。
そもそも、園丁の言う通り今更施肥をしたところで、そのいちじくの木が実をつけることなどほとんど見込みはないのではないでしょうか。むしろ、「皆同じように滅びる」、まさにそれこそ誰もが予想すること、そう言っていい。だから、本来ならば主人はそんなことは無駄だ、そう答えたとしてもおかしくはないし、むしろその方が当然なのではないでしょうか。しかし、この園丁は絶望的な中で尚、見捨てようとはしない、あえて希望を生み出そうとするのです。「切り倒せ!」、すなわち「皆同じように滅びる」しかない、しかし、そこにこの園丁は立ちはだかるのです。
「実を結ばない」、「皆同じように滅びる」、そのようにどうしようもないゆえに切り倒される、捨て去られて当然な存在、しかし、それでも見捨てようとしない、尚、恵みを与えようとするこの園丁。「それでだめなら、切り倒してください」、この言葉の重みを自ら背負っていく、絶望の中に希望を生み出すために、裁きの中に愛を貫くように、ただその一事のために!すなわち、「それでだめなら、切り倒してください」、そこには並々ならぬこの園丁の決意がこめられていることがわかります。すなわち、この言葉は、裏を返せば何としても救う、そのために命がけで全力を尽くすという決意がこめられている、そう思うのです。
このたとえを話されるのはイエスさまご自身です。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、それに対するイエスの思い、御心があるのではないでしょうか。実らないいちじくの木、決して悔い改めることのない人間、どうやったら実るのかも知らずに生きるこの私、イエスはこの園丁のようにその人間と共に立とうとされるのです。この園丁の心こそ、このイエスさまの心そのものであるということ。私たちはただそのことに心打たれるのです。
どうしてぶどう園にいちじくの木が植えられているのか、そもそもそれ自体聞きたいところです。実らないいちじくの木、それがまさにこの私だとするなら、それが植えられているぶどう園はどこで、何を示す場所なのでしょうか。考えられることは、とんでもないところにポツンと植えられている、場違いな所に実ることもなく、惨めな姿をして立っている。しかし、ぶどう園の主人の「切り倒してしまえ」という厳しい言葉の裏には、園丁以上にいちじくの木に希望をかけ、その将来を楽しみにしていた、その主人の深い愛情に気づきませんか。
その主人のいちじくの木に対する思いを園丁も気づいていたのでしょうか。「それでだめなら、切り倒してください」と言って、実らないいちじくの木の絶望的な状況をすべてわが身に引き受けようとする。そのイエスの心に触れるとき、私たちは心に痛みさえ感じるほど、感謝しないではいられません。
自らは実ることのできないいちじくの木、切り倒され、 捨て去られて当然な存在であるがゆえに、やがて切り倒されるに違いないにせよ、たとえ一時にせよ、今はこの園丁、イエスさまの心に私たちは生かされているのです。今やひたすらただイエスの心に触れて生きるしかないのです。自分の身の丈を超えて、もしあえて言うなら、悔い改めとは、このイエスの心に触れて生きるということ。そのこと以外に私たちの選択肢はないのです。
私の渇き果てた魂と心に命の神秘を輝かしながら触れてくれた子どもたちが、私にはこのイエスに思えたのでした。子どもたちもこれから成長して大人になれば、子どもであったときの自分がどれだけ純粋で、人を動かす力を持った尊い存在であったかを忘れていくことでしょう。子どもを失わずに大人になることは難しいことなのかもしれません。実は、私たちも、昔、子どもだったその姿をもっています。イエスさまはその私たちの幼子に向かって語り掛けてこられます。ですから、自分の幼子を通してでなければ、私たちは、決してイエスさまの語りかけを聞くことはできないということです。
いちじくの木が実りをもたらす、それは私たち一人ひとりが隠してしまった自分の幼子を通してイエスさまの心に触れるということ。それが悔い改めることになる。そうやって涙ながらにイエスの心に触れるとき、この結末のないたとえ話の先に、その涙の向こうに、あの方の十字架が、この私の傍らに立っている、そのことに気づくのです!
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