なすべきことはただ一つ

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2025年4月6日(日) 説教

四旬節第5主日            

ヨハネによる福音書12章1~8節

なすべきことはただ一つ

 イエス・キリストの十字架の道を覚える四旬節が後半になってきました。皆様の祈りが深められていると信じます。そして今日、皆様の祈りを助けてくれる一つの方法をご紹介したいと思います。

 皆さんは歩くのが好きですか。最近天気があまり良くないので外を歩ける日が少ないのですが、桜も他の花々もきれいな季節ですから外に出て歩きたいです。私は、座って仕事をする場合が多いので、なるべく歩くようにしています。歩きすぎて疲れてしまうときもあります。

 今日ご紹介する方法は、歩いても歩かなくても、夜、お風呂から上がって足のケアをする方法です。ラベンダーやユーカリのオイルもいいですし、セサミオイルがとてもいいようです。オイルで、足の指一本一本を丁寧にマッサージし、足の底を、『ご苦労様!』と言いながらゆっくりマッサージします。それから、足首、ふくらはぎ、膝の裏、太もも順で、上へ向けてマッサージをします。両方の足を、約15分~20分くらいの時間をかけてマッサージします。それを七日間続けてやってみてください。新しい習慣を身につけるためには七日間が必要だそうです。

 私の経験ですが、毎日足のケアをしていると、その日に自分が歩いた道を思い出し、その道を大切に思う気持ちになります。さらには、自分自身の歩みに信頼を置けるようになり、自分がとても大切な人と思うようになります。

 長生きの時代ですから、まず足の健康を大切にしたいと誰もが思います。しかし、足の健康を機能的な観点からだけ考えるのではなく、内面のケアにもつながるケアの仕方をしてみたいのです。自分を大切にする祈りのときとしても過ごす時間ですから、どうぞ、残っている四旬節の間に実行してみてください。

 今日、イエスさまもマリアから足のケアを受けておられます。オイルはナルドの香油です。ナルドの香油は、死の準備のために用いられますが、とても高いです。その成分の中には、イエスさまが生まれたときに東の国の博士たちが持ってきた贈り物の一つに没薬がありましたが、その成分も入っているそうです。香りだけでなく、遺体の保存にも役立つオイルのようです。

 問題は値段が高いと言うことですが、ユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言っていますから、マリアが施しているナルドの香油はそれだけの値段が付けられるものだったようです。つまり、一リトラの量で、それをデナリオンに換算したとき3百デナリオンになる。私たちがわかり易い単位では、326グラムになります。つまり、当時、日雇い労働者が一日も休まず毎日一年間働いて得る賃金に値するほどのものです。

 その値段の高さにイスカリオテのユダが反応しています。「無駄使いをしている」と、「貧しい人のために施した方がいい」と言うのです。誰が聞いても大切な意見と思います。しかしイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ」(7節)と。つまり、「この人は無駄使いなどしていない使うべきところに、使うべきものを使っているだけなのだ」とおっしゃって、イスカリオテのユダの意見を取り消しています。

 聖書はユダが共同体の会計を誤魔化していたと記していますから、そのユダにしてみれば、それだけのお金になるものを足などに塗って無駄使いしているようにしか見えなかった。その彼の内面を見つめるとき、彼の中の闇の深さに気づきます。これから、彼は、イエスさまを当局に引き渡すための役割を果たすのですが、それも銀貨30枚でイエスを売るようにして引き渡します。人の内面の闇の深さはお金と関係があることを述べているのでしょうか。ユダのやり方を、彼だけのこととして片付けしてしまえない、その自分がここにいます。

 ユダは、お金のことだけにこだわっていたのでしょうか。イエスさまとマリアの親しさに嫉妬感を持ったりはしていないのでしょうか。もしかしたら、彼は、生まれて一度も愛されたことのない人だったのかもしれないし、そうでないかもしれない。彼の中の何かが、イエスに献身的に仕え、イエスと愛し合う関係であることに反応しているように見えるのです。

 このイスカリオテのユダは、2千年のキリスト教の歴史の中で悪者として、ずっと批判されてきました。しかし、彼はイエスの12弟子の一人です。ユダの福音書が存在していたと言われるほど、彼は、ただ単純に闇の中に消えてしまっていい存在ではありません。私たちはもう一度彼の存在を捉えなおす必要があります。つまり、彼は、私たちが背負ってどうしようもない人間の弱さをそのまま見せてくれる人。今日のテキストを通してみるとき、マリアが光の道にいるとすれば、彼はその光がより輝くように支える暗闇の役割を担っていると言えないでしょうか。マリアとイスカリオテのユダ、この二人の姿を私たちは納めているのです。

 それで、ここで気になることは、果たして彼は神さまにゆるされたのだろうか。神はイスカリオテのユダを赦して受け入れたのでしょうか。イエスさまの十字架の上での祈り、「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」という赦しの祈りの中に、イスカリオテのユダも含まれているとすれば、私たちも救われていると確信できる。イエス・キリストの十字架は、それゆえに、私たちに向けられた唯一の愛の眼差しなのです。

 神は赦しても人は赦さないという言葉を思い出します。何かの過ちを犯して思わず相手を傷つけてしまったとき、謝りますがそう簡単には赦してもらえません。逆に、自分が人の言葉や行動で傷ついてしまったときも同じく、相手が謝っているのにすぐ赦す気持ちにはなりません。赦せない理由の中には、相手への怒りだけでなく自分自身のプライドや愚かさにも気づいているので、気持ちの整理になかなか時間がかかってしまうのです。

 私たちはそういう関係性、つまり、赦せず赦されない関係の中で、何十年分と言ってもいいくらいのうらみつらみを抱えたまま生きているのです。それの重さを秤に計ったら、何トンと言うくらいとんでもない重さになるかもしれません。何トンと言う重さを抱えて生きることがもう習慣になってしまっているのです。過去のこと、相手は忘れているのに一人で握りしめて手放さない、今のこと、そして未来のことまで。それらが私たちの中に暗闇を形成し、ユダのように、大切なイエスさまと一緒に生きる者として招かれているのに、心の中の闇の声に耳を貸してしまうのです。そしてそれをお金のようなものと解決しようとしている。

 その自分を労わってあげたいのです。ナルドの香油まではいかなくても、自分を、特に足をゆっくりケアしていくときに、重荷が少しずつ軽くなってゆくのです。

 先ほど拝読された旧約聖書のイザヤ書で神さまはこのようにおっしゃっておられます。「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている」(イザヤ43:18-19)と。

 「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている」。

 神さまが私たちを呼んでおられるのです。「とっぷりと浸かっているその深い闇の眠りから起きなさい」。嫉妬や妬み、被害妄想、悔しさ、苛立ち、憎しみのような闇の力に支配されて生きるのではなく、愛し愛される光の中に出てきなさいと。

 マリアはこの神の呼びかけに耳を傾けた人です。彼女もユダと同じようにイエスさまのお招きを受けた人です。過去や未来を行き来するのではなく、イエスさまがおられる今を生きることを大切にしていました。ですから、彼女は、「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている」という預言がイエスさまを通して実現していこうとしている、その道の上にいることができたのです。光の中を生きる人です。彼女は知っていました。今自分が持っているナルドの香油のような財産に固執したり、大切な歩みをしている人の足を拭うということに自分のプライドを張ったりするようなことではない。さらには、人の批判を恐れて人の顔を伺うようなことでもない。本当に大切なことは、渇いた人の心の荒れ地に喜びの救いの川が流れる道が拓かれること。そのためにイエス・キリストを通してもたらされる神の救いの業が実現していく、ただその一つのことのために自分が用いられる、自分の持ち物が用いられていくことを喜びとすることだと。

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