地には平和 いと高き所には栄光

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2025年4月13日(日) 説教

主のエルサレム入城/枝の主日        

ルカによる福音書19章28~40節

地には平和 いと高き所には栄光

 今年も園庭のソテツの枝が元気に育ち、イエスさまのエルサレム入城のために用いられています。夏の暑さや冬の寒さに耐えながら太陽の力をいただいて、枝は元気に育ちました。園庭に植えられていたのですから子どもたちの元気な声を聞いてつやも出るようになったのではないでしょうか。ちょうどいい頃に、イエスさまの十字架の道を備えるために用いられています。一人一本ずつお家にお持ちになってください。お家の良く見える所に飾って毎日観察すると祈りの助けになります。枝の色が失せていくのを見て、自分の信仰が日々失せていくことに気づきます。

 今日、枝をもっての行進はありませんでした。というのは、イエスさまのエルサレム入城は四つの福音書が並行して伝えていますが、今年はルカ福音書の年で、ルカ福音書だけが枝の記事を省いているからです。イエスさまがエルサレム入城のために用いられているものは、子ろばと上着です。人々は自分の上着を脱いでイエスさまが乗られる子ろばの背中に敷き、歩かれる道に敷いています。ですが、せっかく元気に育ったソテツの枝が用いられるのですからソテツの木も嬉しく、来年も元気な枝を伸ばすのでしょう。

 また、ルカ福音書だけ違う伝え方をしていることがいくつかあります。事の起こった場所の位置づけがほかの福音書と異なっています。29節では「『オリーブ畑』と呼ばれる山に面したベトファゲとベタニアに近づいたとき」と記し、37節では「いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき」と記しています。それに41節では、「エルサレムに近づき、都が見えたとき」と記しています。つまりこれは、イエスさまご一行は全然エルサレムに入っておられず、エルサレムに迎え入れられていない。今日の出来事はエルサレムまではかなり手前のところでのことであるということです。

 このことから私たちは、子ロバに乗ったイエスを歓迎して歌っている人たちの中にエルサレムの市民はいないということがわかります。それでは、誰が子ロバに乗られたイエスさまを歓迎しているのでしょうか。

 マタイ、マルコ、ヨハネの福音書では、イエスと一緒に巡礼者としてエレサレムまで旅を一緒にしてきた人々が、一斉に叫び声を上げていると記しています。ヨハネ福音書では、その巡礼者の中の、先に一回エルサレムに着いていた人たちがわざわざ戻ってきて一緒になって歓声を上げます。しかし、ルカ福音書だけは違うのです。叫んでいる人たちの群れは、エルサレム市民でもなければ、巡礼者の群れでもなく、主の弟子たちです。

 37節にはこのように書いています。「いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた」と。「弟子の群れ」だとはっきりと限定して述べているのです。

 もう一つ、ルカ福音書だけの特徴があります。38節の「天には平和いと高き所には栄光があるように」と歌っていることです。

 この歌を私たちはクリスマスにも聞いていたことを思い出します。ルカ2章14節ですが、羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしているところに現れた天の大軍が、「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」と歌った歌です。イエスさまが生まれたときに歌われた歌が、イエスさまが死を迎えているときにも歌われています。

 歌詞の中に一つだけ違うところがあります。それは、クリスマスのときの歌では「地には平和」と歌っていますが、エルサレム入城の際には「天には平和」と歌っている点です。きっとルカは、ここで、あえて「」を「」に変えているのではないかと思うのです。つまり、イエスさまはこれから苦しみを受けて死に、復活して天に昇られる、そのことを意識している。つまり、地上でも天でもイエスさまがおられる所こそ「平和」が司られる、真の平和はイエスさまがおられるところに臨む、それを伝えようとしているのではないでしょうか。

 大切なことは、平和の君でおられるイエスさまが歩まれる道のりに、弟子たちが一緒にいると言うことです。その弟子たちの口を通して「天には平和いと高き所には栄光があるように」と賛美の声が響きわたっています。

 今日の福音書には、「弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた」(37節)と記されていますが、本当に彼らがイエスさまのすべてをわかって、イエスさまの受難の道を理解した上で歌っているかどうか。きっとそうではない。しかし、大切なことは、たとえ鈍くてイエスさまの歩まれる道がすべてわかっていなくとも、イエスさまの歩まれる道のりにて「用いられている」ということです。

 私たちもそうです。自分がどんなにちっぽけで、もう人に役立つ者ではないと思えても、イエスさまはそうは思わず、私の献げる貧しい奉仕を通してご自分を現そうとしておられます。戦争の噂が絶えない世の中、地震の苦しみの中にいる人々に銃が向けられ、「関税」という名でお金が神のように世界をかき混ぜる世の中で、真の平和が蔑ろにされている、そのただ中に、誰が真の平和を伝えるのか。真の平和を司る方がおられることを、この私を通して伝えたいのです。

 それなのに、私たちは、音痴だから、楽譜が読めないから、時間がないから、勇気がないから、面倒だから・・・ありとあらゆる理由をあげて、できれば黙って静かにしていたい、上手な人に譲って後ろに下がっていたいと、傍観者の席に座っていようとしていないでしょうか。

 イエスさまは、弟子たちがご自分を裏切ることを良く知っておられました。弟子たちの弱さを包みつつイエスさまは彼らを御そばにおいてくださったのです。ご自分の歩まれる道、神さまによって備えられたその道を、イエスさまは弟子たちと一緒に、弟子たちの奉仕を通して歩きたいのです。

 ですから、ファリサイ派の人たちが、「お弟子たちを叱ってください」と言っても、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう」(40節)とおっしゃって、声高らかに歌う弟子たちの賛美を心から喜んで受け止められました。

 そうなのです。神さまは、ご自分がお造りになったすべての被造物を通してご自分が分け隔てなく一人ひとりを愛していると言う救いの業を現そうとしておられるのです。その神さまの御心のままに、「主がお入り用なのです」という言葉を聞いた子ろばが用いられています。当時、財産とも言われるほど価値があった「上着」がイエスさまの歩まれる道に敷かれ用いられています。園庭で育ったソテツの枝が用いられました。イエスさまの歩まれる道がどこへ向かうものかよくわからない弟子たちが用いられています。そして、今、私たちが呼ばれています。私の罪、負い目、恥のすべてを知っていてくださり、それらを包んだまま私たちを神さまの救いの業、愛と赦しの道を備える者として選びだしてくださいました。

 神さまが私たちを必要としておられるのです。

 イエスさまがこれから成し遂げられる十字架の死、それは神の救いの業が現れる場。救いの業は何か。それは、一人も分け隔てることなく神に受け入れられ、愛される、その業が成し遂げられる、それが十字架の出来事なのです。その愛が実現されるところに真の平和が臨みます。神さまはその愛を一方的な恵みの手段を通してもたらされます。もたらされたその愛を具体的にこの世の中に、人々に届ける、その働きの担い手、それは私たち、神に造られた被造物が担うのです。

 マザー・テレサはこういいます。「多くの人は愛に、小さな微笑みに飢えているのです」と。才能もなく力などない乏しい自分と思えても、人のために、神さまの愛をもたらすために微笑みは向けられるでしょうという言葉です。ですから、自分を静かにし沈黙の中で、謙虚に「はい」と言える、神のお招きに「私がここにおります」と応えられる歩みをご一緒にしていきましょう。

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