永遠の喜び あなたのもの

Saint Matthias.PNG2月24日 顕現節第8主日 説教より

(使徒マティアの日を記念して)

主の弟子として選ばれていたイスカリオテのユダは、イエスの群れの会計を担っていました。しかし、彼の使徒としての働きは、イエスの群れの営みも自分自身の歩み方も貨幣価値において捉え、お金を中心にしたものでした。 イエスさまが死を直前にしてマルタの家で食事をしていた際、ユダは、マリアが高価なナルドの香油をイエスさまのお体に塗り始める行為を見て、それをお金に代えて貧しい人に施しをしないことに憤慨していました(ヨハネ12章)。最後にユダは、イエスさまをも祭司長たちや長老たちに銀化三〇枚で売ることによって、イエスの十字架の受難を自らつくって行くような役割を担います(マタイ27章)。その罪意識の中でユダは苦しんだのでしょう。自死を選ぶ悲惨な結末を迎えるのでした。

そのユダの代わりに、マティアという人が12人の弟子に加わりました。ペトロはマティアを、「ヨハネの洗礼の時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられるまで、主イエスがわたしたちと共に生活していた間、いつも一緒にいた者の一人」と紹介しています(使1:22)。一つの釜の飯を一緒に食べてきた仲間ということでしょう。使徒の一人として加わる条件がペトロの言葉を通して述べられています。

つまり、パプテスマのヨハネの洗礼について知り、イエスと共なる生活する中で貧しい生活の豊かさに与り、ユダのような人もいる群れの中で悩み、葛藤し、仲間意識を高め、さらには自分自身が「主を知らない」と否認する中で死を恐れて逃げるような辛い経験をも味わった。そんな中で、仕えるという十字架の道の本当の意味を知らされてゆく。それは、へりくだり。そこで、仕える者は永遠の喜びを知らされてゆくのでしょう。だから、自分のためではなく主(他者)のために、命のように大切なものを差し出して生きる者、それを使徒と呼び、弟子と呼ぶのでしょう。

マティアは、ここの他には出てきません。伝承によれば、エルサレムでユダヤ人によって石打ち刑にされたとも伝えられています。まるで「12人」という弟子の群れを補うためにだけ選ばれ、その一人になったがゆえに尊い命が求められたのでしょうか。自分の栄光を求めたユダに代わって、短かったけれども、神の栄光を現す方イエスを証しする使徒としての道に生きた使徒の姿にわたしたちの心は動かされます。

「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりはわたしの神の家の門口に立っているのを選びます」(詩編84:11)。