幸いな者の道を主は知っている

(2019年2月3日説教をつまんで)

(エレミヤ17:5-8、1コリント12:27~13:13、ルカ6:17-26、詩編1編)

私たちの心の畑には知らずに植えている種があります。その種は、あらゆる状況に応じて芽を出すようになります。喜びの種を植えているか不平不満の種を植えているかによって、関係作りの中で起きてくる出来事に対応する自分自身の姿は決まってきます。そして、「今日はついていない日」、「今日はラッキーな日」と評価するように、「あの人は悪い人」、「この人は良い人」と価値判断をするようになります。私たちに利益と損害の関係性を重んじる傾向があるのです。

本日の日課に選ばれているところはどちらも、幸いな人と不幸な人、主に信頼する人と信頼しない人とに分け、人を木に喩えて述べています。エレミヤは主に信頼する人のことを、「彼は水のほとりに植えられた木」と述べ、詩篇では、「神に逆らうものの計らいにしたがって歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人は流れのほとりに植えられた木」と述べています。人は木、神さまは水です。木が水のほとりに植えられてあれば、苛酷な環境の中でも葉も青々しく実を結ぶことをやめないように、人も神さまにつながっていれば、状況の良し悪しによらず実を結ぶということです。

概念的には理解できますが、具体的に「水のほとり」とはどこなのでしょうか。そこは、人と神が和解して交わるところ。それゆえ人と人の間に利益や損害関係はもう必要とされず、互いが互いを赦し平和が実現されるところ。「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスさまの新しい掟が遂行されるところ。主の十字架のもと。

けれども、現実のわたしたちは今ある物が経て貧しくなることに不安を覚えます。相手から聞きたくない言葉を聞いたときには腹がたち、赦せない思いを強くもって過ごします。周りで起きてくる状況によって自分の幸いと不幸を繰り返すのです。その私たちに今日イエスさまは語りかけておられます。「持ち物が一つ減った分だけあなたの重荷が減る。あなたが空っぽにしたところをわたしが満たそう。神に逆らって生きる人々の現実を悲しんで祈るあなたに、永遠の喜びでもって応えよう」と。

私という木の根っこは今どこに降ろされているのでしょうか。水のほとりにいれば、私たちは神さまに知られ、必要なものはすべて満たされて行くことでしょう。そして、私たちは水のほとりで安心してどんどん根っこを伸ばしていいのです。そこで葉を茂らせ、幹を太くして豊な実を結ぶ歩みへと導かれてゆくのです。そしてそこに訪れてくる傷ついた人、希望を失った人、安らぎを求めている人、慰められたい人をどんどん宿して、神さまのものを限りなく分かち合う、そういう神の国を広げられたらどんなにいいのでしょう。