木陰で休んでください

ルカによる福音書10章38~42節    2019年7月28日     創世記18章1~14節

アブラハムは、自分たちの住まいの近くを通りかかった旅人をもてなしました。足を洗う水を出し、上等なもので食事を準備し、親切にもてなしました。それは、暑い真昼の出来事でした。このもてなしを通して年老いた夫婦の生活に大きな変化がもたらされる約束が与えられます。それは、歳を取った老夫婦に「男の子が生まれる」という、人の感覚を遥かに超える約束でした。ですからサライは笑ってしまいました。旅人をもてなすという尊い奉仕に仕え、それによってその家庭に神が介入されようとしている。しかし人は、自分の尺度を超えたところでの神の介入を受け入れることに、戸惑ってしまいます。きっと、経験したことのない世界に対する不安と恐れがあるのでしょう。

マルタもイエスさまご一行を自分の家に迎え入れてもてなしました。大切なお客様です。ですから彼女は、上等な食材を選んで、美味しいものを作ってもてなそうとがんばったのだと思います。聖書は「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書いています。一人で、あれもこれも、しかも時間に間に合わせようとがんばっている様子が浮かんできます。ところが、彼女の心の中に不満が生じました。「一人でやっている!」「妹もいるのにどうしてわたしだけ?」と。

どんなに良いことであっても、あれもこれもと欲張れば欲張るほど人の心は疲れはじめます。自分の意思で始めたことであっても、疲れの原因を人から探そうとしたりする。人のせいで疲れているように思ってしまうのです。今、彼女は、イエスさまご一行のお腹が満たされ、疲れも癒され、次の働きに出かけられよう迎え入れ、もてなすという、とても尊い働きに遣わされているのです。それこそ、彼女の家は、イエスさまご一行がエルサレムへ来られる際には常に立ち寄って休まれる、暑い日の木陰のような場になっていました。しかし、自分の力以上に働きを増やすことによって尊さは大変さに変わり、心の平安は不平不満に変わってしまいました。

そのただ中で、マルタにとって幸いなことは、その不平不満をイエスにぶつけているということです。それは彼女の真っ直ぐな性格と言えるかもしれません。不満の相手は手伝ってくれない妹でありました。しかし、人を経由しないで真っ直ぐにイエスの方へ心の問題を持っていくという真っ直ぐさ。不平不満で熱い心に、イエスという木陰を作っているのです。それによって、彼女はイエスから尊いメッセージをいただくようになります。「必要なことがそれほど多くない」、「本当に必要なことは一つだけである」、「人の幸いは、シンプルさ、単純素朴さの中にある」という教えをいただくのでした。

この物語の中でイエスとやり取りしているのはマルタだけです。ですから、この物語は、マルタとイエスの物語と言えるかもしれません。マルタの真っ直ぐさによって、イエスとの間に物語りは展開され、彼女の家は新しい始まりへと繋がっていきます。つまり、マルタの家がイエスご一行の木陰になってゆくのです。さらには、この家でイエス・キリストの死と復活を先取りするラザロの死と復活の出来事が起きるようになります。

旅人をもてなすということ。疲れた人が来て休んで癒されて次の旅へとつなげられる木陰になってゆくという働き。その木陰の内で、聖なる者がもてなされ、さらには死が、闇が、新しいいのちに、復活のいのちに変えられる神の救いの出来事を証する尊い働きへ繋がってゆくということ。

私たちの社会、そして今の世界は、人が休めないような仕組みをどんどん強くしています。多くの人の心が病んでいます。私たちもそのただ中にいます。そこでしっかり木陰を作っていますか。さらには木陰になっていますでしょうか。私たちはマルタと同じように、自分がイエスと言う木陰のもとで憩われるように招かれていると同時に、疲れてさ迷う旅人をもてなす働きへの招きをも受けています。もてなしの術は、単純素朴さにとどまること。その術を身に着けて、私たちの歩みが、始まりから次の始まりへとつないで旅する尊い歩みでありますように。